サンプル
虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ
『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。)
「廟街の虎はある仔をのぞむ」(書下ろし)
一
雷震東との抗争を経て、阿秋と阿龍、俺の三人は多くの者を束ねる立場につき、それぞれ縁があった場所か得意な分野で地位を築いた。若かった頃は、争いの気配がなかろうと次の戦いに備えて気合を入れる会合だ、手下を増やすための人脈作りだ、最近はどんなことがあったか近況報告だと称しては酒を飲み、好きなだけ食べて、たいした成果も結論も出ない遊びを繰り返していたのが懐かしい。今ではわざわざ適当な理由で記念日を設けるか、季節にかけつけた祝い事をしなければ、なかなか三人とも集まらない。大人になるとは、人の上に立つ立場にいるとは、なかなか大変なものだとつくづく思うが、若かった頃には想像すらできなかったと苦笑する。
特に、今日俺を九龍城砦に呼んだ阿風を思い出すと、歳を取るとはいいことも少なくないが、煩わしいことも増えて困るなと溜め息がついた。
昨日の夜遅く、廟街の私用の電話が鳴った。もう寝る間際で右眼の義眼を外していた俺は、くだらない電話なら容赦なく切るつもりで電話を取った。
「久しぶりだな、阿虎。調子はどうだ」
しかし、出る直前まで喉元に出かかった苛つきと不愉快さは、受話器から聞こえた阿風の力ない声で霧散していた。
「悪くはない。古傷は相変わらずときどき痛むが、廟街は景気が右肩上がりだ。ようやく俺も手下に仕事を任せて、表立って戦うことも減らせそうだ」
「それは何よりだ」
「今さら調子を聞いてくるなんてどうした? 何か言いたいことがあるんだろう。忘れないうちに話せ」
受話器の向こうで溜め息が聞こえた。隠し事はできないなとぼやいたあと、珍しく静けさが続く。阿風が俺に話すのを迷っているのなら、余計な詮索や催促はやめようと黙って待った。
「……髪を切りに、俺の店に来ないか」
「少し前に行ったが、今は幸い時間もある。二日後には行けるが、問題ないか」
「すぐに来てくれて助かる。時間は朝早くでもいいか」
「構わない。俺は特別な客というわけだな」
「ああ、少し事情がある。無理を言ってすまない」
「こんな夜更けに、電話が来て、お前のそんな気力のない声を聞いては、多少無理をしてでも早く行こうという気にもなる。信一に何かあったか?」
「いや。うん、そうとも言えるか。子育ては大変だと改めて思う」
頼りない阿風の笑い声には、ふうと大きく息を吐いた音が混じっている。俺が知らない間に、ずいぶん大変なことがあったようだ。
「無理はするなよ。土産を持っていく。少しでも俺が助けになれればいいが」
「そう言ってくれて助かる。頼れるのはお前くらいだ」
「気にするな。今晩の抗争に人手が足りないと、夕食を食べる直前に突然駆り出されるより、よほどましだ」
「おい、いったい何年前の話だ? そんな昔の話を持ち出すな。あれは、今でも俺が悪かったと思っている。じゃあ、夜遅くに悪かったな」
お互いに笑い合って、電話を切った。
二日前のあの電話から阿風に何があったのか、密かに気が気ではなかった。頼りにしていた手下を喪った、信一に病気が見つかった、そうした周りにいる者たちの不幸で困っているから手を貸してほしい。そんな話はごめんだと思いながら入り組んだ通路を歩いていく。まだ朝早い時間帯ですれ違う人影は少ない。
思えば、できるだけ早くに来てほしいと阿風に頼まれたのも初めてだ。まったく何があったんだ。早く阿風に会って聞きたいと、気がつけば歩みが速くなっていた。
見慣れた通路にたどり着く。嗅ぎ慣れた煙草の匂いが漂う。理髪店の前で、阿風が立って煙草を吸っている。俺に気がついて、おもむろに体をこちらに向けてくる。
「急にすまないな」
「何を謝っている? 俺はただ髪を切りに来ただけだ」
店の扉には、しばらくの間休業中と書いた札がかけてある。一瞥するだけで、何も言わずに土産の入った袋を渡す。そのうち俺に電話した事情も、休業中の理由も阿風が話し出すだろう。
「信一が好きなお菓子を買ってきた。気晴らしにでもなればいいが」
「ありがとう。助かる。阿虎が持ってくるお菓子はこのあたりではあまり買えないから、信一はいつも喜ぶ」
阿風は煙草を消して店に入った。俺も続いて入った。信一がいると出迎えてくれるが、朝が早いせいか俺たち以外は誰もいない。しんと静かな店で、俺は鏡に向かい合う椅子に座った。
「いつもの髪型で」
「髭剃りは」
「頼む」
「分かった。いつも通り整えておく」
そう言うと、阿風は手際よく準備をして髪を切っていく。普段は昼から午後にかけてこの店に来るため、周囲の喧騒がほとんどない穏やかな雰囲気を初めて知った。無秩序で雑多な賑わいを保つ九龍城砦も気に入っているが、静かな一面を知ると、たまには早い時間に髪を切ってもらうのも悪くない。いや、阿風はともかく、信一を起こして迷惑になるか。やめておこうと、鏡に映った自分がわずかに笑った。
髭を剃っていく阿風の指先はいつも通りだ。数日前の電話で聞いた声にあった不安や躊躇いは窺えない。さすがプロと言うべきか、感情を隠すのが心配になるほどうまいと呆れるべきか。切り終えて片付けをする阿風に、そろそろ何があったと俺から聞いてみようかと思っていると、肩に手を置かれた。鏡越しに顔を見る。こっちに来てほしい、と阿風は店の奥へと視線を投げた。
何があるんだと聞きたかったが、阿風が何も言わないのは理由がある。朝早い時間に来てほしいと言ってきたことにも。今聞かなくともすぐに分かるだろう。椅子から立ち上がって阿風について店の奥へと向かう。
店の奥は阿風と信一が暮らしている住居になっていて、俺も滅多に立ち入らない場所だ。入ったのは、信一が病気で寝込んだとき、阿秋と見舞いに来たくらいか。
鍵がかかった扉を開けた阿風についていき、生活用品が雑多に置かれた細い廊下を抜ける。その先に簡素な木製の扉が二つある。阿風は手前の扉を開けて、中を見てくれと手で示す。俺は部屋に一歩踏み込んで覗き込んだ。勉強机や本棚、子ども用の上着がある。かわいがられている子どもの部屋だと一見して分かる。棚の本も机の上にある文房具やノートも小綺麗だ。椅子にかけられた上着でさえもくたびれた様子はなく、真新しい。阿風がかわいがっている信一に相応しい部屋だ。
その部屋で半分ほどの空間を占めている清潔なシーツが敷かれたベッドを見て、俺はついかすかに声を上げて目を見開く。
二人の子どもが寄り添って眠っている。片方は信一だ。もう片方の痩せこけた子どもは見たことすらない。
信一のふっくらとした頬やしなやかな体つきと対照的に、痩せこけた子は青白く、体のあちこちに痣や傷が目立っている。特に信一の隣にいるせいで、骨が浮いた肢体が目について思わず憐れだと感じてしまう。身長も体格も信一より小柄だ。信一と同い年には見えない。いくつか歳下だろう。
くせのかかった髪は信一と似ているが、信一のよく手入れされた艷やかな髪と比べると差が明らかで、惨めな印象がさらに強まる。痩せた子どもの髪は細く、朝日にあたると、色が抜けて傷んでいるのが際立つ。
肩を叩かれる。頷き、音を立てずに下がる。阿風が扉をゆっくりと閉めた。
俺たちは顔を見合わせて理髪店へ戻った。お互いに何も言わずに煙草を取り出し、火をつける。澄んだ陽射しの射し込む窓辺に立ち、煙草を吸った。
「あの子はどうした?」
「信一が仲良くなった子だ。薬物の過剰摂取で死にかけていたところを、信一が見つけて、俺が助けた」
阿風が窓を開けた。涼しい風が吹き込んだ。煙が舞い、あたりに消えていく。俺は風に煙を乗せるように細く息を吐いた。わざわざ俺にあの子どもを見せたということは、阿風は手を貸してくれと言いたいのだ。回りくどいやつだと呆れると同時に、この短くない付き合いの友人は誰かに頼るのが不得手だったと思い出す。戦力が足りない状況でも黙って無理をして、結局抗争当日に頼ってくる。そんな阿風が、見つけた子どもを助けてほしいと訴えているのは、何か複雑な理由がある。幼い信一を一人で育てた阿風が、世話をする子どもがもう一人増えたくらいで俺に頼るわけがない。
「わざわざ俺に会わせたからには、理由があるんだろう。何をしてほしい」
「あの子を廟街に連れていってほしい。いや、阿虎に引き取ってほしい」
「詳しく話せ。どうするかはともかく、聞いてはやる」
煙草はまだ残っている。阿風は目を細めて、潜めた声で話し始める。
「あの子は薬物の売人に騙されて薬物をやってしまったんだが、それが原因で親に縁を切られた。家を追い出されて、行き場もなく一人でいたところを、売人に目をつけられた。しばらく前にここに連れてこられて、薬物を売らされていた。逃げ出さないように薬物漬けにされて」
「ここ最近、薬物についてはある程度寛容だった龍哥が、売り方に口を出し始めたと噂で聞いていたが、それが原因か」
「廟街にまで伝わっていたか。節度を持って薬物を売るのは構わないが、子どもを利用して売って、さらにその子どもにまで薬物をやらせるのは、節度も最低限の矜持もない犬だ。人を食い荒らす犬は追い払うべきだ」
いつもは冗談や軽口をうまく使って人を諌める阿風にしては、珍しく剣呑さを隠さない言いぶりだ。よほどあの子どもを見つけたときの状況か、薬物による影響がひどかったのだろう。
「犬を追い払うために理髪店は休業か」
「ああ。あの子が理由で俺に追いやられた犬どもが、報復に来るかもしれない。子どもや客を巻き込みたくない」
大変だなと肩を竦める。俺は深々と煙草を吸い近くにあった灰皿に押しつける。時間をかけて煙を吐き出す。阿風の言いたいことは分かった。この話は信一とあの子どもには聞かせたくないと考えて、できるだけ朝早くに来てくれと俺に頼んできた理由も察せられた。
「つまり、あの子どもを守るために、俺に引き取れというわけだ」
「そうだ。話が早くて助かる。このまま九龍城砦にいては、また薬物を無理にさせられるかもしれない」
「お前は信一を育て始めたときから、俺にも子どもを育てるのはどうかと何度か聞いてきたな。独り身では寂しいだろうとか、後継者を育ててはどうかとか、とやかく理由をつけて」
「子どもを引き取る気も、育てる気もない、といつも阿虎は答えていたな」
一層声を潜めて阿風は言った。子どもには聞かれたくない会話だ。
「覚えていたなら、俺に頼むのが間違いだと分からないか」
「今すぐ決めろというわけじゃない。会ってみれば、阿虎の気も変わるかと」
「そうだな、すぐに決めるのは難しい。だが、会うだけで気が変わるなら、世の中はこれほど複雑じゃない」
「難しい選択なのは百も承知だ。ただ、あの子を助けるためには、阿虎のもとに行かせるのがいいと何となく思った。はっきりとした説明はあまりできないんだが」
「仕方がない。お前は言い出したら、変わらないやつだ」
新しい煙草に火をつける。これも何かの縁だと諦める。煙草を吸った。
伸るか反るか。ここは付き合ってやろう。
「しばらく九龍城砦に来てもいいか? 何度か会ってみて決めたい。実際、後継者は探していた。あの子に会ったのも何かの縁で、いつか俺の跡を継ぐ若者になるかもしれない。せっかくの縁を見捨てるのは惜しい」
阿風の口元から緊張が抜け、ふっと笑った。
「断られてもおかしくないんだが。優しいな、阿虎は。ありがとう、助かる」
そう言って弱々しく煙を吐き出した阿風は、短くなった煙草を灰皿で消した。そのとき、彼の左手の甲に陽射しがあたり小さな引っ掻き傷が見えた。真新しいのか赤くなっている。
「気にするな。薬物中毒で苦しんでいる子どもの世話など、誰でも簡単にできることじゃない。黒社会の人間なら、そういった者の扱いに慣れている」
そこでやっと阿風の目が見開かれる。どうしてそう言うんだと聞きたげな様子に、彼の左手の甲を指差す。
「大変なようだな」
「俺はそうでもない。一番辛いのはあの子自身だ。これでも、俺のところに来てだいたい二ヶ月は経って、ましになってきた」
平然と笑ってみせる阿風は手の甲の傷を眺めた。昔から様々な人に慕われ、いつの間にか誰とでも仲良くなっているやつだったが、阿風は人が好きなのだから好かれるのも当然だと俺も口の端を持ち上げる。
「来たばかりの頃は目を覚ましている時間も短くて、ほとんど何も食べられなくて大変だった。今も薬物の依存から抜けきってはいない状態で目を離せないが、信一と遊べるくらいには回復してきた。ときどき具合が悪くなったり、薬物の離脱症状で暴れたりしてしまうこともあるが」
「俺でよければ、その子どもの面倒を見るのを手伝ってやる。ここにはそう頻繁に来られないだろうが」
「十分ありがたい。この恩はいつか返す」
「返してもらうために恩を作っているわけではない。こんなもの忘れろ。それで、その子どもの名前は」
奥の方で扉が開く音がした。俺たちは会話をとめた。静けさが訪れた店内で頼りない足音が近づいてくる。店の奥にいる二人のどちらか、もしくは二人ともだ。俺たちの話し声を聞いて、誰かがいると怖がらせてしまっただろうか。店の奥から信一が顔を覗かせた。俺は灰皿に煙草を押しつけた。
「おはよう、信一。起こしてしまったか?」
阿風が優しい声で尋ねる。
「うん。話し声が聞こえて起きた。あ、虎哥、おはようございます」
信一は寝癖がついている髪を手で撫でつけながら挨拶をした。まさかこんな時間に俺がいるとは思いも寄らなかったのか、少し緊張した面持ちをしている。
「おはよう。俺が来たせいで、起こしたな。すまない」
声をかけると、信一の背中から小柄な人影がおそるおそる顔を出す。俺の声で怖がらせたなら、悪いことをした。
「信一、あの人は誰?」
小声で信一に聞きながら、その子どもは俺を見つめてくる。
顔を向けると目が合った。たちまち、さっと視線を落として、慌てて信一の背中に引っ込んで隠れてしまう。それでも、好奇心を抑えきれないのかそろりと顔を出して、突然やってきたのは誰なのか早く教えてほしいと、阿風と信一の間で視線を揺らしている。
「驚くのも無理はない。初めて会うからな。この人は虎哥だ。廟街をまとめているんだが、聞いたことはないか? 俺の長年の友人だ」
「虎哥……」
頬がこけた青白い顔の中で、見開かれた目がより印象的に映る。怖がらなくてもいい、緊張するなと言いたかったが、俺が何を言ったとしても今は怖がらせてしまいそうで黙ってしまう。
「今日、虎哥は髪を切りに来てくれたんだ。お土産のお菓子も持ってきてくれたからあとで食べよう」
「ありがとうございます、虎哥」
嬉しそうな声を上げる信一の背中で、小柄な子どもは戸惑っている。信一の寝間着の裾を掴み、怯えたようにじっと立ち尽くしている。
その様子に、阿風に助けられるまでさぞかし苦労したのだろうと勝手に想像してしまう。
「虎哥、朝食はどうする? まだだろう」
どうだ? と言いたげに軽く首を傾げた阿風が聞いてくる。朝食を一緒に食べて、その子と少し話してみないかと誘ってきている。
「ここで食べるつもりだった。邪魔なら帰るが」
「廟街の虎哥がせっかく来てくれたのに、邪魔なんて言うやつがどこにいる? ぜひ一緒に食べていってくれ。俺が朝食を買ってくる。最近はいろいろ物騒で子どもだけで留守番させるのは心配だからな、虎哥はここに一緒にいてやってくれ」
そうきたか。俺は小さく溜め息をついたが、何も言わずに頷き返す。
「俺が帰るまでに二人は着替えて、朝食を食べる支度をしておいてくれ」
「分かった。龍哥、いってらっしゃい」
そう言う信一の背中で、小柄な子どもも、いってらっしゃいと呟いた。阿風は俺に向かってわざとらしく目を細めて出ていった。
「虎哥、すみません。着替えてきます」
「急に来たんだ、畏まらなくていい。俺のことは気にするな」
信一は頷いて、背中に隠れていた子どもの手を取って部屋に戻った。そういえば、あの子どもの名前を聞いていなかった。あとで聞くのを忘れていなければいいが。煙草を取り出して吸っている間に、物音や水が流れる音が聞こえる。煙草を一本吸い終わって、新しいものに火をつけた頃に、信一たちは戻ってきた。
「龍哥はまだだ。もう少し待とう」
「はい。それまでに朝食の準備します」
信一と子どもは店にあるテーブルとソファを動かし、四人で食事ができるようにしていく。準備の手際がいい。おそらく、普段は三人で食事している。阿風はこの子たちに慕われているなとつい頬が緩んだ。
「虎哥、準備ができました。座って待っていてください」
「悪いな。二人も座ってくれ」
子どもを立たせたままでは忍びない。俺はソファに座り二人にも座るよう促す。小柄な子どもは少し迷った素振りをしていたが、向かいにある椅子に信一が座ると、追うように信一の隣に座った。
「初めて会う顔だな。龍哥からは信一の友達と聞いたんだが、名前を教えてもらってもいいか。龍哥に聞きそびれた」
子ども相手に堅苦しい聞き方をしてしまったと反省するのとほとんど同時に、痩せこけた子どもは膝の上に手を置いた姿勢で肩を小さく跳ねさせた。仔猫が人間を警戒しているのに似ている。怯えさせたようだ。仕方がない。俺の声は聞き取りにくいうえに刺々しくて、愛想よくできないのが困りものだ。
「……十二」
「本名か?」
数字が名とは珍しい。聞くと、か弱く首を振った。恥ずかしそうにも、本名を名乗れないことを弱みだと思っているようにも見えた。
「本名じゃない、です。でも、本名は嫌いだから。あだ名が、十二なんだ」
「なぜあだ名が十二なんだ? 十二月に生まれたのか」
あだ名の理由をあてられるはずもない。冗談のつもりで言ったが、子どもは目を丸くして瞬かせる。信一もその子どもの隣で驚いた顔をして俺を見つめている。
「どうして分かったの? 実は龍哥に聞いてたの?」
「何も聞いていない。偶然だ」
真っ直ぐ見つめてくる視線は無邪気で、どう扱えばいいのか分からなかった。痩せた体躯に反して声は朗らかで柔らかい。
その声とは対照的に、俺の濁った声の短い返答は素っ気なかった。子どもの人懐こい声と比べると冷たさがより目立って居心地が悪い。この声の愛想の悪さにも慣れたつもりだったが。短い溜め息をつくと、十二と名乗った子どもは俯いた。はしゃいだせいで俺の機嫌を損ねたとでも思ったのだろう。
「あたっていて俺も驚いた。適当に言っただけなんだが」
「あてた人は初めてだから、俺も驚いた」
そう言って十二はちらりと視線を上げた。俺が顔を向けると、さっと伏せるように視線を落とす。灰皿に短くなった煙草を押しつける。
阿風ならもっとうまく子どもと接する。こんな子どもにさえ気を遣わせる俺には、とうてい真似できない。自らへの苛つきと手持ち無沙汰で、もう一本煙草を取り出しかけた。ちょうどそのとき、扉が開く音がして食欲がそそられる匂いがしてきた。阿風が帰ってきた。
「信一も十二も着替えて、支度をしてくれていたな。助かる。朝食を食べよう」
取り出しかけた煙草をしまう。朝食をテーブルに置いて食べていくが、唐突な訪問者の俺を気遣ってかわずかに緊張して張り詰めていた。阿風と信一が場を和ませようと話してくれるも、俺はさっさと朝食を食べて立ち上がる。
「もう行くのか」
「ああ、仕事がある。十二」
呼ぶと、お粥を食べていた十二がれんげを落としそうな勢いで肩を跳ね上げた。
「好きな食べ物はあるか?」
何で唐突にそんなことを聞くのだろうと俺をじっと見つめたまま首を傾げる。そんな十二に信一が大丈夫と膝を指でつついた。
「えっと、叉焼飯、ジュース。あと、果物味の飴と、チョコレート」
「覚えておく。次に来たら土産に持ってくる」
十二はきょとんとした顔をしていたが、俺が帰ろうと扉の方に向かいかけたとき、視界の端では頬を緩めているのが見えた。店の外に出ても阿風がついてきた。
「阿虎、またいつでも来てくれ」
「時間ができたら来る」
「どうだった、あの子は」
「あの子は、そうだな、いい子だ」
何に、どこに、いい子だと感じたのか説明はできないが、少なくとも悪いとは思わなかった。健気に生きようとしている。
ここで大変な目に遭ったにもかかわらず、彼の眼差しには恨みや憎しみといった陰がなく無邪気だった。
それに、いい眼つきをしている。自分でも明確な理由は分からないが、あの子どもの何かに惹かれている。これが人ではどうにもできない、縁や天といったもので導かれる予感か。
「だろう。信一の友達だからな」
「お前が育てた信一だ。人を見る目がある。俺は、あの子を気に入ったみたいだ」
勝手に口元が笑っていた。俺が子どもを引き取るなど許されるのか。そんな躊躇いを、まだ引き取ると決めたわけではないと言い訳をして、笑って蓋をする。まだ決めなくともいい。まだ選んでもいないことで思い悩むなど、時間の無駄だ。
「近いうちにここにまた来るつもりだが、困ったら遠慮なく呼べ」
「よかった。阿虎は面倒見がいいから助かる」
「勝手に言ってろ。俺は、ただ気に入ったやつを放っておけないだけだ」
「それは俺も気に入ってくれてるってことか」
「あえて言わせようとするな。まあ、出会ったときからな。おかげで無茶な頼みをされて、大変なことも多いが」
「阿虎に気に入られてよかった。今では廟街の虎哥だ。放っておけなくて俺を助けてくれるたびに、心強いと改めて思う」
「虎の威を借る何とやら、か? まったく、調子のいいやつだ」
「そんなことを言うくせ、頼ると借りさせてくれるじゃないか」
得意げに笑う阿風の胸を拳で軽く叩いて、あまり調子に乗るなと大袈裟に溜め息をついた。笑い合い、じゃあなと告げて背を向けた。次にここに来るのはいつになるだろうかと、予定を思い返しながら歩いた。
公開:2026年10月4日
更新:2026年10月4日