サンプル
虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ
『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。)
「境の歳に飼い飼われる仮初」(書下ろし)
三
日が暮れ始めた頃、仕事を切り上げて事務所を出た。車を運転させて九龍城砦へ向かう。しばらく車は走って、停まった。運転していた手下が一緒に行きますか、と後ろの席にいる俺に顔を向けたが、首を振って待たせておく。こんなところで俺を襲うやつがいたとすれば、いい度胸をしている。旧友の目が光るここで俺を襲おうものなら、この入り組んだ城砦から逃げきれるかも怪しい。たとえ逃げられたとしても、阿風の人脈で捕まえられるのが目に見えている。
ただ、九龍城砦で襲われないと分かっていても、俺の立場上、手下を伴って行動した方がいいのだろう。それでも、廟街にいれば、事務所だろうが、家だろうが、手下か世話人が常にいる。ここで少しの間くらい一人でいたいのだ。
人の少ない通路を選び、進んでいく。通路と階段が入り組んだ建物では、生活音と話し声が反響し合って波のように音がざわついている。上の方から足音がして、元気な声で話しながら階段を駆け下りていく子どもたちとすれ違う。懐かしい、二年前にここで出会った子どもを思い出す。二年前をつい最近に感じてしまうが、十二の成長を見ていると確かに時間が過ぎたのだと分かる。
理髪店にたどり着く。休業の札を横目に扉を開けると、窓辺で煙草を吸っていた阿風が振り返って手を上げた。そして、店の奥から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「虎哥!」
奥から現れたのは十二だ。阿風に切ってもらっただろう髪先が揺れた。明かりの下で、髪は滑らかな焦げ茶色に輝いている。切られたばかりの髪は耳に少しかかる程度の長さで、軽やかな雰囲気がいい。
「よく似合っているな」
「だろ。龍哥が、似合いそうな髪型にしてくれた。服も新しくしたんだ。どう?」
阿風に挨拶する間もないまま、十二は話し、その場でくるりと一周回った。上着の裾がひらりと広がる。十二の後ろに信一も現れ、はしゃいで大変だったんだと言いたげに肩を竦めて目を細める。そうだなと俺も小さく頷き、阿風と信一に挨拶する時間くらいは欲しいのだがと苦笑しつつも、嬉しそうに笑う十二の全身を改めて見る。明るい色がベースの革の上着に、シンプルな白いシャツを合わせている。履いているのは濃い色のズボンだ。全体的にやや落ち着いた印象で、よくまとめている。
「自分で選んだのか。似合っているが、珍しい格好だな。動きやすい服装が好きだとばかり思っていたが」
「虎哥みたいな格好をしたくて、この上着を選んだんだ。で、信一に似合う服を選んでもらった」
そう話す十二の肩に、信一が腕を回して大袈裟に溜め息をついた。もう二人の体格差はほとんどない。二人とも、どこか子どもらしさを残すしなやかさと、成長し始めて大人の兆しを見せるたくましさが、ぎこちなくも両立している。身体は大人になりかけているが、俺の真似をするところは子どもらしくて、かわいいものだ。
「誕生日だから付き合ったけど、もうしてやらないぞ、十二。俺が選んでも、もっとクールでとか、虎哥みたいにかっこよく、って何軒も店を回って大変だった」
「うるさいな、信一。ここで言わなくていいだろ」
少し大人びて、砕けた口調で話す信一に、十二はうるさいなと顔を赤くして信一の腕を振り払う。
「信一、久しぶりだな。十二の買い物に付き合ってくれてありがとう。大変だったようだな」
「お久しぶりです、虎哥。大変でしたけど、選ぶのは楽しかったです。十二がいろいろ言うものだから、おかしくて」
「いろいろ?」
聞くと、十二が口を歪めて、信一の口を手で塞ごうとする。その手を信一はさっと躱して、俺の傍に来た。
「これは虎哥が好きそう、好きじゃなさそうとか、似た服を虎哥も持ってたからこの服が欲しいとか」
にやりと笑って話す信一に、十二が焦った顔で飛びつき、もういいだろ、なんで言うんだと文句をぶつける。そして、仕返しだと信一の体をくすぐりだす。
「悪い、悪かったって、もう言わないからやめろって!」
「本当だな? 余計なこと絶対に言うなよ!」
じゃれ合う二人を、仲がいいと眺めていると、阿風が片眉を器用に上げて近寄ってきた。
「十二はここに来てからずっとこんな調子だ。虎哥が来るまでそわそわしていて大変だった」
「だって、せっかくの誕生日だ。楽しみで、落ち着いてなんかいられない」
信一を捕まえたまま十二は俺たちへ顔を上げ、はにかんだ。仕方がないなと俺は溜め息をつき、意地悪く尋ねてみる。
「龍哥、そう厳しく言うな。一五はまだ大人ではない。子どもなら、はしゃいで当然だ。そろそろ出かけるか、十二? それとも、もう少し遊びたいか?」
「子ども扱いはやめてくれって、虎哥。はしゃぎ過ぎたのは謝るから。腹が減ったから早く行こう。な、信一だって、腹が減ったよな」
「十二がずっと落ち着かなくて、今日一日遊んでたから早く何か食べたい。早く行こう、龍哥、虎哥」
信一に言い返されて、十二は恥ずかしそうに口を尖らせて信一だって楽しそうにしていたくせに、とぼやく。その隙に、信一は捕まえられていた体勢から抜け出し、逆に十二の首に腕を回して体を寄せる。
「俺も楽しかったけど、お前の方がずっと楽しそうにしてただろ」
「おい、急に近づくなよ、信一。痛いだろ。悪いけど、ちょっと離れろって」
「ああ、ごめん。忘れてた。つい、いつも通りにやったせいでぶつかった」
そのとき、俺はようやく気がついた。十二の耳たぶが赤くなっている。そこにはピアスがついていた。近づいて十二の前に立つ。耳にかかっていた髪をそっと払う。
「似合っているな。いつの間に? 朝はつけていなかった」
「髪を切ったあとに。よかった、虎哥に似合ってるって言ってもらえて」
ぱっと目を細めて満面の笑みを浮かべた十二は、よほど嬉しかったのか、上機嫌で信一と肩を組んで店を出ていこうとする。
「先に行ってくれ、いつもの車だ。外に停まっている」
「分かった」
十二は返事をしながら振り向き、片手を上げて出ていった。
「まったく元気なものだ。阿風、十二が迷惑をかけたな」
「子どもは元気な方がいい。誕生日であんなに喜んでくれるのも、嬉しい限りだ。阿虎、十二を無事に育ててくれてありがとう」
「どうした、改まって。あの子が大人になるまで、まだ先は長い」
「そうだな。気が早かった。それでも、十二がここまで無事に大きくなったのは阿虎のおかげだ」
「その言葉は、ありがたく受け取っておこう。だが、あの子を助けた信一と阿風のおかげでもある。謙遜するな」
阿風の肩を叩き、行こうと促す。窓から見える小さな空は、すっかり暗くなっていた。俺たちは理髪店をあとにした。背後で阿風が店の鍵を閉める音を聞きながら、煙草に火をつけた。
「待たせたな、早く行こう。あの二人は俺たちが来るのが遅いとむくれている」
「そうか? 俺たちが来ていないことにも気づかないで、喋っているはずだ」
外に向かって歩く。阿風と二人きりで歩くのは久しぶりだった。十二を引き取ってから、阿風と会うときはだいたい十二も連れてくるようになったからだ。引き取られたばかりの十二は俺からなかなか離れようとしなかったことを思えば、あの子は大人になった。一人で考え、遊ぶ場所を見つけて、友達と好きにしている。成長して選択肢が増えた分、俺から離れる時間が増えた。寂しい気もするが、安心もする。わずかに感じた寂しさに反して、きっと俺は嬉しがっている。抱いたものは馴染みのない感情で、自分が何を感じているのか言葉にはできないが、そう思った。
九龍城砦の外に出ると、十二と信一は出た先の壁に寄りかかって待っていた。
「何をしてたんだ? 虎哥。待ってて暇だった」
「龍哥と少し話を。大人になると話したいことが増える」
ふうん、と十二は不満そうな声で答えた。車まで向かって歩き、俺は助手席へ乗り込む。残りの三人は後ろへ乗った。俺が後ろに乗ってもいいが、そうすると十二が俺に甘えてきて阿風か信一に苦笑される。そこで十二を助手席に座らせると、俺にも阿風にも構ってもらえないと機嫌を損ねるため、こうして座ることが多い。十二と信一を、阿風が平等に構ってやってくれるおかげで二人とも機嫌がよくなる。
車が走り出し、廟街に向かう。大通りを進んで裏通りへ入る。細い通りに入る手前で車が停まった。運転手をそこで待たせ、車を降りる。俺たちと入れ替わりに近くで待っていた手下が乗り込む。この先の店には誰も来ないよう見張りと護衛を兼ねて待機させておく。細い通路を歩いていくと、見慣れた店がある。後ろでは信一があの店に行くのは久しぶりだ、九龍城砦にないのが残念だとぼやき、それならもっと廟街に遊びに来い、俺は虎哥とよく行くから連れていってやると十二が話すのが聞こえてくる。俺の隣を歩いていた阿風がふっと笑う。
「まだ子どもだな」
「一五は大人じゃない。子どもらしくていいだろう。大人に甘えてくれている」
そうだなと阿風が小声で言った。
「虎哥たちは、いったい何を話してるんだ?」
十二が俺の左側から顔を出し、聞いてくる。
「たいしたことじゃない。今日は何をご馳走してもらえるか、楽しみだと」
「たぶん、俺が好きなものがたくさん出てくる。去年も虎哥がこっそり準備してくれてたんだ」
十二は得意げな笑みを浮かべて言った。
「さて、今日はどうか。お前もそろそろ大人だからな。前とは少し違った料理を頼んだかもしれない」
そう答えて、店の扉を開く。視界の端では十二が口を尖らせて、そんなことしてないよな、と言いかけていた。店主が出迎えてくれて、店の中でも一番大きなテーブルに案内される。他には誰もいない。今日はこの店を貸し切っている。テーブルには多くの料理が並び、いい匂いがする。俺の隣に座った十二が、嬉しそうに歯を覗かせて笑いながら肘で小突いてくる。さっきのからかいは結局嘘だったんだ、と言い返したいようだ。素知らぬ振りをして、どうしたと首を傾げた。
「龍哥、信一、時間を取って来てくれたことに感謝する。今日は十二の誕生日だ。いろいろあったが無事一年が過ぎたこと、これから一年もいい年になるよう祝おう」
俺と阿風は酒を、十二と信一はジュースで乾杯する。乾杯してからは好きに料理を食べながらこの一年はこんなことがあったと笑い合ったり、ときには十二と信一がしでかした危なかっしいことを思い出して呆れたりと、話が尽きなかった。阿秋も都合が合えば来てほしかったくらいだ。ただ、阿秋がいると阿風と俺が過去にやった無謀な行動や、今なら絶対にしない格好をつけた振舞いを話し出す。あと少しくらい、この子たちの前では格好つけていたいが、いつかは阿秋に話されてしまうのだろう。
料理を粗方食べ終えたところで、火のついた蝋燭が立てられたホールケーキが運ばれてきた。苺やはじめとして様々な果物で飾りつけられたケーキは、料理を食べてもなお食欲をそそられる。甘いものがさして好きではない俺でもそう感じるのだから、お菓子が好きな十二は喜ぶはずだ。
「すごい! どうしたんだ、このケーキ。去年はなかった」
そう言って、勢いよく椅子から立ち上がった十二は運ばれてくるケーキをまじまじと見つめる。店主は愛想がいい笑みを浮かべて、特別サービスですと答えた。
「近所でケーキがおいしい店があるんです。そこに頼んで作ってもらいました」
「お前が好きそうだから、できないかと頼んで、ここまで用意してもらった」
「ありがとう、すごくおいしそうだ!」
「いえお二人に喜んでくれれば何よりです。これからもぜひ店に来てください」
「うん、また来る。すぐ来るから」
俺に連れられてこの店によくやってくる十二は、店主や店員にはもちろん、他の常連客にも顔を覚えられている。最初こそ人見知りしがちで俺の背に隠れて緊張していたが、いしいと店主に素直に伝えられるようになり、夢中になって食べる姿を見せるようになって、かわいがられるようになった。十二の人懐っこい気質と裏表のない素直な性格は、こうして周囲の人々を惹きつける。
いい子になった。俺が育てたのが信じられないくらいだ。誕生日に考えることではないなと、一度頭を振った。
「十二、願い事は? 今年はしないのか?」
「あ、待って、虎哥。今する」
俺が聞くと、慌てたようにその場で立ったまま十二は目を閉じ、手を組んだ。どれくらいかかるだろうかと考える間もなく、十二はぱっと目を開く。
「願い事ができた。もう食べていい?」
「ケーキを早く食べたいからって、願い事を適当にしたんじゃないよな」
信一が目を丸くしたまま尋ねる。十二の願い事がものの数秒で終わったことが信じられないと、表情が語っている。
「早く食べたいけど、そんなわけない。前から願い事は決まってたんだ」
「そういうことか。叶うといいな」
「ああ。ありがとうな、信一」
十二はそう言って座った。その声は丸みが削れて、子どもらしさが薄れていた。大人びて聞こえる。
この子は、そろそろ子どもではない。大人になりかけている。早いものだ。
公開:2026年10月4日
更新:2026年10月4日