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虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ

『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。) 「廟街の虎はある仔をのぞむ」(書下ろし)    二  初めて十二に会ってから二日後、俺は阿風の店に赴いた。行くと連絡もせず、彼が言った「いつでも来てくれ」という言葉を遠慮なく使わせてもらう。昼頃でも理髪店の前は静かだ。いつもは阿風を慕う手下たちや住民たちで賑わっているせいで、静かだとむしろ落ち着かない。九龍城砦で薬物を売る規則を一新する、子どもにまで薬物を売る輩を追い出せるまで理髪店は休業だと、以前阿風は電話口で言っていたが、はたして店が営業を再開するのはいつになるのだろうか。  それだけ薬物の問題は根深い。薬物で得られる一時的な逃避や快楽は、歴史を顧みても大勢の者を魅了し、心身ともに堕落させ、破滅に導いている。その事実から薬物中毒者が差し出す金は、多くの者から人としての尊厳を奪い取ってなお価値があると判断され、黒社会では巨大な資本を得る手段として重宝されている。  いくら阿風でも、完璧な解決は無理難題に等しい。苦労は尽きないが、できるだけうまくやれよ。口の中でぼやき、理髪店の扉を叩く。  来ると言っていなかったからか。しばらく待っても誰も出てこない。運悪く誰もいないときに来てしまったかと思ったが、中には明かりがついている。近くで電話を借りて連絡するか。その場を離れかける。  店内から慌ただしい足音が聞こえた。軽い。信一か。慌てて踵を返して戻ると、扉が開いて信一が顔を出す。 「虎哥」  目元を曇らせた信一は、俺と店の中を交互に見る。焦ってどうするべきか戸惑っている。 「困っているようだな。俺にできそうなことがあったら手を貸す」  信一は言葉が出ないのか何度も頷いて、俺の上着の袖を引っ張った。  袖を引かれるまま中に入る。信一は店の奥へと小走りで向かう。俺は店の鍵をかけて、信一のあとをついていく。向かった先は信一の部屋だ。 「龍哥、虎哥が来てくれた」  入ると、ベッドの上で阿風が十二を背中から抱きかかえている。子どもの骨が目立つ細い四肢は、巧みに阿風に押さえつけられていた。これだけなら癇癪を起こした子どもを宥めているようにも見えるが、十二は威嚇するような荒い息を吐いて阿風の腕に噛みついている。幸いにも阿風はシャツ越しに噛まれているおかげか、血は流れていない。  十二の目は見開かれている。俺に気がついて、もどかしげに四肢を動かして暴れかける。恥ずかしがっているのか、この前会ったことを忘れて、知らない相手だと怯えているのかも分からなかった。阿風が十二を抱く腕に力を込め、じたばたともがく手脚を押さえた。薬物への依存による症状か、離脱症状か。十二は目に涙を浮かべて視線を揺らす。額からは汗が伝い落ちていて、くせ毛が額や頬にはりついている。 「虎哥、悪いが手を貸してくれ」  俺は頷いて土産の入った袋をベッドの傍らに置いた。ハンカチを取り出す。阿風の腕に噛みついている十二に屈み込む。  親指から人差し指にかけて覆うようにハンカチをかけ、小さな口と阿風の腕の隙間に捻じ込んだ。 「十二。龍哥から口を離してやってくれないか。代わりに俺がお前を見る。これを噛めばいい」  しかし、十二は噛みついたまま首を振った。 「薬物をまたやりそうで怖いのか。だから、押さえつけられていたいのか」  十二の目がさらに大きく開かれた。怯えとも、驚きともつかない感情が窺えた。 「俺が押さえておいてやる。だから、龍哥を離してくれ」  ようやくハンカチ越しに触れていた十二の口が緩む。少しだけ開いた口に、ぐいとハンカチを置いた指を噛ませて強引に阿風の腕を外す。阿風が俺に頷く。一瞥で応じると、頼んだと彼の口元が動いた。  頷き返すと同時に、阿風が十二の体を離す。俺はすぐさまベッドに上がった。十二を背後から抱きかかえる。  阿風は一瞬だけ目配せを残し、部屋の隅で不安そうに身を縮こませていた信一の背中に手をあてて部屋を出ていった。二人のあの様子だとずいぶん長い時間、阿風が十二を押さえつけていて動けなかったようだ。  俺を中へ入れてくれた信一の様子から、今は一人で外出するのは危ないとでも阿風に注意されていて信一はどこにも行けずに、誰も呼べないままどうすればいいのか分からずに困っていたのだろう。  まったく、俺が来なかったらどうするつもりだったんだと言いたくなった。十二が指を噛む力はさほど強くはなく、布越しに軽く痛むくらいだが、噛む力は一向に緩まない。ずっとこの子どもを阿風一人で押さえつけているわけにもいかないのに。 「十二、俺を覚えているか」  指と抱きしめている腕から、頷く動きが伝わってくる。 「朝からこうしていたのか」  また頷く。俺は十二を抱く腕に力を入れる。小さな骨ばった体を、時間をかけて抱き寄せる。抵抗したり、理性を失って突然暴れたりはしないと判断する。細い腕を掴んでいた手を離す。肩につきそうな髪をそっと撫で、肩をさする。 「薬物の離脱症状は辛いと聞く。よく耐えたな」  手の下で薄い肩がぴくりと跳ねた。動物が身構えるように。  俺は肩をさするのをやめ、また十二の腕を掴んだ。 「撫でられるのは嫌だったか」  頷きとは違った動きが、口に噛ませた手から伝わった。首を横に振ったらしい。 「土産を持ってきた。廟街に最近できた店で、いろんな食品を輸入している。香港では珍しい外国の飴とチョコレートを買ってきた」  応えはない。返事を求めて話しかけたわけではない。構わずに話す。 「腹は減ってないか」  十二は動かない。突然会いに来た大人が気遣ってくる目的は何なのかと、警戒しているのかもしれない。それとも、俺が何か企んで優しく振舞う打算的なやつだと考えて、心を許せない対象になったか。すぐに判断をせずに、沈黙、あるいは判断の保留を選んでいるとしたら利口で、なかなか強かな子どもだ。 「お菓子を食べたくはないか」  十二の口に噛ませた手の甲にぽたりと温かい感触が伝う。顔を下に向けると十二が泣いているのが見えた。噛む力が強くなった。歯が指に食い込む。歪んだ目元からぽろぽろと涙が落ちていく。俺の手の甲に落ちた涙は膨れた重みに耐えかねて、手首を伝い落ちるか、十二の膝に落ちていった。 「好きなだけ噛め。俺は大丈夫だ」  嫌だと言わんばかりに、十二は首を横にした。  その勢いで俺の胸元に十二の髪が擦れた。 「ぃ、やだ……」  噛んだままのせいで歪んだ声が聞こえる。暴れることはないだろう。また髪や頭、肩を撫でていく。 「ご、めん……なさい」  さっきまでの打算的な面があるのかという考えは、呆気なく覆った。  俺は愚かだ、この子は強い。自分が周りに迷惑をかけていると責めて苦しみ、周りの善意を受け取れないことでおそらく泣いている。自分が辛いからではなく、他人を思い遣っている。そのせいで、自分へ向けられている優しさを甘んじて受け入れられない。阿風がこの子どもを大切に扱ったのも理由にあるだろうが、どれだけ自身が苦しい境遇にあろうが他人を信じて身を委ねられる、優しく強い子だ。 「龍哥に気を遣っていたんだな。助けてくれる人を傷つけたくないと、考えていたあたりだろう。謝らなくていい」  十二は目を持ち上げる。目が合った。 「あいつもだが、俺も弱くない。好きなだけ頼れ。落ち着くまで見張ってやる。薬物をやめたいんだろう。その手伝いしかできないが、頼ってくれ」  丸い目がじっと見つめてきて、ぱちりと瞬く。少し遅れて頷きが返ってくる。  俺は十二の軽い体を抱き寄せた。あと少しでも力を入れると、折れてしまいそうなくらい細い体だ。  廟街にも、九龍城砦にも野良猫がいる。警戒心が強くて人間を寄せつけないせいで世話を見てもらえないか、縄張り争いに負けた猫たちは痩せ細り、毛並みは汚れてごわごわしている。そして、骨の形が毛と皮でごまかされずに浮いている。だが、いくら小さく、か弱く見えようとも、彼らは路地や複雑に入り組んだ通路を走り回り、素早く飛び跳ねてどこにでも軽やかに行ってしまう。  十二の身体から、ふとそんなことを思い浮かべていた。触れている身体は骨ばっているが、確かに温かい。この子どもは見た目こそ憐れに見えるかもしれないが、気丈に生きている。 「眠ってもいい。ずっと傍で見ている」  かすかな頷きで、くせのかかった髪が首元に擦れた。指を噛んでいる力がほんの少しだけ緩んでいた。  どれだけその場にいただろうか。煙草が吸いたい。十二は俺の胸元に寄りかかったままじっとしている。さして時間は過ぎていないだろう。  遠くから聞こえてくる生活音で、時間を推測する。まだまだあたりは騒々しく、昼の活発さをまとっている。  するりと十二の体から力がするりと抜けて、俺の腕の中にすっぽりと収まった。耳を澄ませると規則正しい呼吸が聞こえてくる。眠ったようだ。口に噛ませていた指を少しずつ動かすと力の抜けた口元から外れた。噛んだ跡がハンカチにくっきりとついている。ハンカチをベッドに置いて両腕で十二を抱きかかえ直し、彼の腕を掴んで見ていく。あちこちに引っ掻き傷や噛み跡があり、いくつかは瘡蓋(かさぶた)になっているが、まだ鮮やかな赤い血が滲んでいるものも多い。短い丈のズボンから覗いた脚にも引っ掻いたような細い傷がいくつもある。  離脱症状が原因か。それとも、薬物への欲求に耐えるためか。いずれにせよ自分で自分を傷つけたくもないのにやってしまった、痛ましいものだ。  眺めているうちに、俺は傷を指で撫でていた。早く治ってほしいとでも願うような手つきに苦笑する。責任もなく、世話を見る苦労もしていないくせに、こうしてかわいがる素振りだけするのが俺は嫌いだ。後先を考えずに情けをかけて手を差し伸べておいて、縋られる勢いに戸惑った瞬間に手を離す。見捨てて助けないでいるよりも、よほど残酷だ。  縋る藁があるよりも、ときには何もない方がうまく諦められる。希望を潔く捨てて絶望や憎しみに身を窶(やつ)しても、生きていけるよう人間はなっている。かつての俺がそうだった。片目と声を傷つけたときにへたな希望が目につけば、それに縋りつこうとして一層苦しんだだろう。希望がなかったからこそ、絶望のどん底に這いつくばってでも、生き延びよう、憎しみを支えにしてどうにか這い上がってやろう、このまま落ちきって死んでやるものかと考えられた。  短く息をついて、十二の傷から手を離す。親しくもない子どもをむやみやたらに触るのも、相手にしてみれば気分がいいものではない。  隣の部屋からわずかな気配がする。意識を研ぎ澄ませると誰かが歩く音がした。扉が開き、こちらに向かってくる。そして、この部屋の扉が時間をかけて開いた。  どうだ? と首を傾げた阿風が入ってくる。 「眠った」  阿風は小さく頷いた。近寄ってきて十二の頬を撫でる。 「信一も俺の部屋で眠った」 「そうか」  俺たちは黙ったままその場にいた。十二の寝息はまだ浅く不規則だ。  もう少し深く眠れば、俺が離れてベッドに横にしてやれそうだ。離していいのかと、多少気は引けるが、抱きかかえられた体勢より、ベッドで眠る方がより落ち着いて眠れる。  阿風が俺の上着から煙草の箱を取り出して、一本取り出す。勝手に取るなと文句を言う前に、阿風は咥えて火をつけていた。一息分吸った煙草を摘み、俺の口元に差し出してくる。俺はありがたく煙草を口にして、一度だけ深く吸った。顎をしゃくると阿風が俺の口から煙草を取って部屋から出ていった。戻ってきた阿風の手には、何もなかった。さすがに信一の部屋に灰皿は置いていないようだ。 「外に出て話そうか、阿虎。十二を起こしたら悪い」 「いや、ここで。十二に、俺が傍で見ていると約束した」  すると、阿風はいいものを見つけたように目を丸くして、すぐにほほえんだ。からかうなとサングラスの隙間から睨みつけるが、阿風は一向に気にせず、部屋にある椅子をベッドの近くに持ってきて座った。 「阿風、今日は何があった。俺が来たときには、信一がひどく焦った様子で中に入れてくれた」  声を潜めて尋ねる。阿風は隣の部屋にちらりと視線を向けた。 「明け方くらいに十二が離脱症状で苦しみ始めた。ここ数日はなかったから油断していた。離脱症状に耐えるためか、十二は自分の体を引っ掻いたり、噛んだりしてしまうんだが、それをとめようとした信一も引っ掻かれて、少しだが怪我をした。すぐに俺が押さえて、お前が来てくれるまでああしていた」  話している間、十二の耳元を手で塞ぎ、何も聞こえないようにする。 「信一は外に出て誰かを呼べないのか。お前の手下たちは何をしている」 「薬物を子どもに売るような犬どもを追い出すのに忙しい。信一も今一人で外に出たら攫われて、薬物の売人どもに人質として利用されるかもしれない」 「黒社会の問題に子どもを巻き込む、か。確かに、できる限り避けたいものだ」 「信一も今の状況が大変だと分かって、十二を助けようとしてくれる。自分が傷ついても、十二をとめようとしてくれるが」  そこで、阿風は大きな溜め息をついた。 「だが、信一もまだ子どもだ。さっきも隣の部屋で十二を守れなかった、俺の役に立てなかったと泣いていた」 「お前の育て方がよかったな。信一はいい子で、心配になるくらいだ」 「俺が育てたのか、ときどき疑ってしまうだろ?」  冗談を言いながら、また溜め息をついて、首を横に何度か振った。 「信一は優しい子だが、最近はどこかそわそわしている。十二がここに来てから、俺が構ってやれる時間が減って信一を不安にさせているのも原因だろう。悪いと思っている。十二の方が大切なんじゃないか、俺が信一の親ではなくなるんじゃないかと、信一は感じている。なのに、それを隠そうとして、無理をしているように見える」 「思春期か。難しい年頃だな」 「十二もだ。信一と同じでまだ誰かに甘えたい年頃なのに、俺のところには信一が先にいる。だから、信一に気を遣って、俺に頼るのを申し訳なく思っているようだ」  そうした事情もあって、さっき泣いていたのかもしれない。俺は張りの薄い頬に残る涙の跡を見つめる。 「十二はいくつだ? もうそんな、思春期で悩む年頃か」 「信一と同い年だ。十三歳だ」  最近の子は早熟と聞くために思春期も早いのだろうが、この体つきではさすがにまだ十歳程度だろうと考えていたせいで意外だった。歳の割に、ずいぶん小さく華奢な体つきだ。食事もままならず、誰にも面倒を見てもらえていなかったのだろう。  阿風は十二を見る。諦めと後悔が混じったような苦しげな顔をして目を伏せた。  しかし、さっと視線をもとに戻す。彼が俺を再び見たときには、憐れみや同情に近い感情は顔から既に消えていた。 「そうだったのか。十三か、ちょうど多感な年頃だ」  十二が信一と同い年に見えない、とは言わなかった。こういう子どもたちは九龍城砦や、廟街の細く薄暗い路地に数えきれないほどいる。驚きこそしたが、目新しいことでも、特別憐れみを覚えることでもない。言い換えてしまえば、俺たちはこういう子どもたちに慣れてしまっている。黒社会には親や兄弟といった家族、保護してくれる親族がいなかった過去を持つ者もたいして珍しくない。 「どうだ、阿虎。この子は」 「気に入った。強い子だ」 「だろう。強いんだ。離脱症状で自分が辛いのに、俺や信一を気遣う。もう周りに見捨てられたくないんだろうな。薬物をやめたいといつも言っている。……ここより、廟街の方がこの子の気質にも合うと俺は考えている」 「なぜ? 十二をお前や信一と引き離すのは心苦しい。いかに俺が気ままに獲物を定めて、虎視眈々と狙う虎哥だとしても、さすがにできない」  皮肉めかして言うと、阿風は笑った。  その様子に、廟街の俺の噂はここにも届いているようだなと、ふっと息を吐いて笑う。何年も前に雷震東との争いに勝ってから、俺は廟街を支配している。敵対した組織は容赦なく潰すが、気に入った相手は仲間に引き入れる。引き入れた者たちが経験を積んで信頼ができるようになった頃合いで、新しく手に入れた土地や店、商売の管理を任せる。そして、また新しい者を仲間にしていく。そこにたいした理由や信条などない。ただ、俺は今まで対立していたから信頼できないという非合理な感情より、廟街の利益につながるのであれば何者でも利用したいだけなのだが、いつの間にか周りには、気に入ったのならどんなものでも手に入れる一方で、何を手に入れても決して満足しないと噂されるようになった。年月をかけて広がった噂は、廟街の虎哥は強欲かつ狡猾で、呼び名の通り気ままな虎だ、と喩えられるまでになっている。 「どうしてそんなに皮肉めかして言う? それはお前の上辺だけの話だ。貪欲に、清濁ともに飲み込んで、廟街の、ひいては手下やそこに関わる人々のために尽くす。それが虎哥だ」 「そんな大層なものではない。俺は、俺がまとめる廟街をよそ者に踏み荒らされるのが嫌いだ。だからこそ、常に目を光らせて自分の縄張りを守っているだけだ。使えるものは何でも使って、気に入ったやつは手元に置いておきたい」  自分で言ってみて、確かにこれでは気ままな虎と喩えられてしまうのもやむを得ないな、と軽く口元が緩む。 「俺は九龍城砦を守りたい。住民も、手下も、信一や十二も。誰も彼も平等に守りたいなんて、とうてい叶えられない綺麗事の理想を振りかざしてしまう。この子たちにしてみれば、碌に面倒も見られないのに世話をしようとしてきて、迷惑だろうな」 「俺のような身勝手なやつなら子ども一人を欲しい、守りたいと、好きにできるんだがな。龍哥(﹅﹅)は真面目すぎる」  そういうことか。阿風の言わんとしていることが分かった。お互いに自由に、好き勝手をしにくい立場になったなと溜め息をついた。やりたい、そうしたい、なんとなくそう思った、気まぐれ、好奇心。目的もなく、はっきりした理由さえ自分自身で表せられない感覚。それだけで動きたくとも、今の俺たちには責任だとか、意味や理由だとか、まとわりつくものが多すぎる。それでも、子どもがいない俺は阿風より幾分か動きやすい。若い頃は兄貴と慕われる立場に憧れていたが、こうなると知っていたら、俺は今の立場を望んだだろうか。考えても無駄か。知っても、あのときの俺はとまらないに決まっている。呆れて煙草が吸いたくなったが、信一の部屋で吸うわけにもいかない。ほとんど溜め息になった呼吸をして、へたな笑みでごまかす。 「それに十二は外の世界が向いている。ここはいつかなくなる。きっと、これ以上は広がらない。ただ過去が積もるだけだ。いずれは綺麗に片付けられてしまう」 「廟街も同じだ。いつかは政府や何かしらの手が入って、綺麗にされる。変わらないものはない」 「それでも、信一はここで生まれ育ったが、十二は外から来た子だ。ずっとここにいるのは、向いていない気がするんだ」  どうやら阿風もどう言えばいいのか分かっていないようだ。眼鏡の端を軽く摘んでかけ直し、曖昧に口の端を持ち上げた。 「分かった。お前は、俺の気まぐれでこの子どもを連れ出してほしいんだろう。しばらく会いに来てみて、気に入ったなら遠慮なくもらおう」  信一が寂しがっても知らないぞと脅すように大袈裟に続けると、阿風はこの子は誰のものでもないと答えた。声音こそ穏やかだったが、信一を子ども扱いする気や、十二をかわいがるだけの愛玩動物として扱う気はまったくないようで、淡々とした声で言った。十二を誰かに預けないといけない。その覚悟と、自分が責任を持って世話を見られなかった罪悪感を、阿風はもう噛み締めている。 「俺は昼食を買いに行ってくる。阿虎は留守番していてくれないか」 「ああ、行ってこい。俺の分も適当に買ってきてくれ」 「意外だ。もう食べてきたと思っていたが」  からかうように弾んだ調子で阿風が言って、椅子から立ち上がる。 「一緒に食事をした方が、多少は打ち解けやすいかと思っただけだ」 「やっぱり優しいな、阿虎は。お前を頼ってよかった」 「余計なことを言わずにさっさと行け。腹が減った」  ぶっきらぼうに鼻を鳴らして答えると、おお怖い、とふざけて言いながら阿風は部屋を出ていく。店の扉が開閉して鍵をかけられる音がした。  俺たちの話し声が聞こえないよう押さえていた耳を離す。手のひらの下で押さえられていたくせ毛が跳ねて丸まった。寝息は規則的で、十二はよく眠っている。一度立ち上がり、抱きかかえていた体をベッドに寝かせて、阿風がさっき使っていた椅子に座った。 「廟街も九龍城砦に引けを取らない場所だと思うが、どこが自分にとっていいのかは行ってみるまで分からないな」  指で十二の頬をたどる。痩せてはいるが温かく、柔らかい。廟街に連れて帰るのも悪くはないだろう、そんな気まぐれを起こしたくなる。  俺はすべてのものを救えるわけではないだろう、と自問する。たちまち、その気まぐれは大人しくなった。  そして、手を差し伸べれば誰かを救えるなどと思い上がるなと、年を食った俺がぼやいた。若造の俺は、何かを手に入れたいと常に何かを望んで戦っていた。きっと、力や金があれば、俺自身も周りにいる者たちも、幸せにしてやれる、救われるとでも思い上がっていたのだ。そのせいで、喪った友人、手下は多く、さらに俺自身の目と声も欠いた。かつての争いを通して嫌というほど自らの弱さを知った。今の俺は立場こそあるが、俺一人の力などたかが知れたものだ。そう分かっているはずが、この子ども一人くらいならば、どうにかならないだろうか、どうにかしてやれないかとつい考えてしまう。 「それでも、俺のもとに来るなんて願い下げだろうな」  冷たい笑みが、少し遅れて口の隙間から溢れた。黒社会の者に、それこそ俺に助けられて、いったい誰が喜ぶだろうか。喜んでもらえるとでも思っているなら、あまりにも恩着せがましい。俺は十二の頬から指を離した。俺が関わるだけで、どれだけこの子どもの行く末を変えてしまうのか。触れるだけでも俺の因果で汚してしまいそうで、罪悪感が忍び寄ってきて後ろめたい。  この子どもがもしも俺の手下になってくれるのであれば、引き取って育てるために都合のいい大義名分を掲げて引き取り、素質があれば活かしてやりたいといつの間にか考えてしまっていた。この子どもは、誰のものでもないのに。そして、どうなるかも誰かが定めていいものではない。 「俺が虎哥でなければ、引き取っていたかもしれない」  この子どもをどう利用してやろう、どんな価値があるか、子どもを引き取ったら周りからどう思われるか、などと考えず単なる善意で決断できたはずだ。黒社会はやはりいいものではないと苦笑する。  そのとき、十二が小さく呻いて寝返りを打った。ベッドから落ちそうだと体を手で支えて、ベッドの中心へ押した。傍にあったバスタオルをかけてやる。しかし、その感覚で起こしてしまった。十二はもぞもぞと体を動かして、俺の方を向く。ぼんやりとした目つきで見つめてくる。 「寝ていていい。ここにいる」 「とうさん……」  弱々しい、かすかな声だ。俺は父親ではない、違うと正すべきか。黙っておくか、そうだと嘘をつくべきか。  どうしたものかと戸惑っているうちに、十二は俺の腰に頭や胸を擦り寄せて、また目を閉じていた。  本当は阿風にしたいのだろうに。俺でいいのか、と尋ねる代わりに頭を撫でた。だが、自分の口元は戸惑いながらも緩んでいる。絆されかけている。その気持ちを抑えるために、困ったものだと考える振りをしてみた。振りとは裏腹に、とても本心からは思えそうにない。歳を取って、嘘をつくのがへたになってしまった。  扉が開く音がして、足音といくつかの物音がした。阿風が帰ってきたようだ。足音は隣の部屋に行く。話す声が聞こえてきたが、その中に信一の声が少しずつ混ざってくる。どうやら信一が起こされたらしい。寝かせたままにしてやればいいものをと思うが、昼を食べさせずに放っておくのは気が引ける気持ちも分かる。二人の足音はこちらに来て扉を叩き、静かに部屋に入ってくる。 「どうだ。昼を食べられそうか」  阿風がベッドに屈み込んで、十二に尋ねる。返ってくるのは寝息だけだ。ちらりと顔を上げた阿風は、いつの間にこんなに懐かれたんだ? と嬉しそうに目を細めたが、俺は知らないなと軽く首を振った。 「さっき、少しだけ起きたんだが」  耳元を撫でてみる。くすぐったかったのか、かすかに喉を鳴らし、俺の腰に額を押しつけて擦りつけてくる。 「起きられるか、十二。昼だ」  ぴくと手の下にあった耳が、いや、頭が動いた。俺の背中にもたれかかるように体を起こしかけたが、ベッドについた腕は頼りない。肩を掴んで支えてやると大きな欠伸をして、くたりと寄りかかってくる。 「お腹、減った」  掠れていたが、力が抜けてじゃれつくような声だった。起きたばかりで丸まった体を伸ばそうとする猫をつい思い浮かべる。 「なら、少しだけでも食べよう。無理はするな。俺と信一は昼の準備をしている。いつでも来てくれ」  サングラスをずらして阿風を睨めつける。二人きりにするなと訴えたが、十二に寄りかかられて動けない俺にくすりと笑い返し、信一と部屋を出ていこうとする。俺が持ってきて置かれたままになっていた土産は忘れずに持ったあたり、あえてやっているのは確実だ。二人になる機会に、少し話してみろと言外に示している。 「大丈夫だ。取って食べるわけじゃない」  俺と十二、いったいどちらに向けたのか。妙な含みを残した言葉を代わりに置いていく。まったくふざけている。俺はともかく、子どもである十二はほとんど会ったこともない大人と残されて、堪ったものではないだろうに。阿風たちがいるところに連れていった方がいいはずだと、声をかける。 「起きられるか」  十二は顔を上げ、俺を見つめてくる。  室内でも濃い色のサングラスをかけているのが気になったのか。サングラスの薄いガラスを隔てて、見つめ合う。  片目を失ってから、俺は目をそらさなくなった。  視界が片目分に狭くなり、敵や危険を察知しにくくなったと無意識にでも警戒しているのかもしれない。実際、戦っているとき、不意を突かれて襲われたとき、最も重要になるのが情報と速さだ。敵はどこにいる、武器は何だ、敵はどう動こうとしている、どうすれば相手を殺せるか、何をすれば俺は死なないか、生き延びられるか。すぐに敵と危険を察知し、理解し、判断を下して、動かなければならない。一瞬でも迷い、躊躇い、とまったままではやられる。片目を失った分を補うため、残りの片目は常にあたりを探り続ける。  生き残るために、死なないために、そして、俺にとって大切なものを見落とさないために。  俺はもう、大切なものを失いたくない。  この子どもと戦っているわけではないのに。  どうして睨むように見つめている?  おかしなものだ。そう思っている一方で、丸みのある幼い眼に宿った無邪気で澄んだ瞳から目が離せない。  どこまでも無邪気で、翡翠を思わせる滑らかな黒い瞳をしている。片目の目蓋にあるほくろが印象的だ。だが、澄んだ瞳の底には何も見えない。  憎しみも、寂しさも、苦しみも。明るくもなく、希望もないが、絶望もない。  ただ、真っ直ぐと見つめてくる。 「何を見ている?」 「虎哥の顔を、まだしっかり見たことがないから」  そこでようやく目元がわずかに笑う。子どもらしい好奇心が瞳に滲んでいる。言う通りだ。俺はまだ十二の前でサングラスを外していなかった。この子どもになら、俺の右目を見せても構わないと思えた。珍しい。 「俺の顔が気になるか。見ても、楽しいものではないぞ」 「あ……、ごめんなさい」  俺の返事に怒られたと誤解したらしい。慌てたように十二は体を引いた。ふらつく体をベッドに腕をついて辛うじて倒れるのを防いで、また俺を伏し目がちに見る。 「無理をするな」  ふらついている十二の肩を支えて、ベッドの縁に座らせてやる。眠気か薬物の離脱症状のせいか、十二は俺の肩にもたれかかった。 「よく龍哥に注意される。好奇心ばかりで動くな、話すなって。周りの人に気を遣いなさいって。好奇心があるのはいいことだけど、人を傷つけるときもあるから」 「あいつが言うことも正しいが、あまり気にするな。急に来た俺が気にならない方が変わっている」 「でも、さっき言ったことは、失礼だったと思う」 「俺は失礼だと思っていない。いつか顔を見せる日が来るかもしれない。機会があれば、だが」  子どもなりにも、大人に気を遣われていると察したのか十二は小さく頷いて、視線だけ持ち上げる。  俺の表情を窺っている。大人の機嫌を損ねていないか怯え、怒っていないかを探る目つきだ。この子どもには似合わない、どこで誰が覚えさせたのかと苛つく程度に、つまらない目だ。さっきの澄んだ眼差しの方がずっといい。 「えっと、虎哥……お腹が減ったから、ご飯を食べたい」 「立てるか」  十二は慎重に立ち上がる。手を貸さなくとも歩けそうだが、背中に手を添えた。同情して支えていると思わせるのは避けたかったが、十二の覚束ない足取りに勝手に手が動いていた。  阿風たちがいる店の方に行くと、いい匂いがした。十二の足が少し速くなり、俺の手から背中が離れた。 「来たか。無理せず、食べられそうなものを食べなさい」  そう言って阿風が十二を信一の隣の椅子に座らせる。料理は手つかずで、信一と一緒に待っていてくれたようだ。俺は十二の隣の椅子に座った。野菜炒めをつまみながらお粥を食べる。十二は少しずつお粥を食べていく。腹が減ったと言っていたが、一度に多くを食べられる体力がないのかもしれない。全員が何を話していいのか迷っているのか、黙って食べた。  信一がお粥とおかずを食べ終わった頃、十二はまだお粥しか食べていなかったが、もう十分なのかジュースを開けた。 「そろそろ、虎哥が持ってきてくれた土産をいただくのもいいな」  阿風は近くにあった袋を取って、中からお菓子を取り出してテーブルに置いた。 「先に食べていてくれ。俺は茶を淹れてくる」  席を立ちながら、阿風が信一と十二の肩に手をのせる。 「信一、十二、俺の分は気にせず食べていいからな。ほら、虎哥へ礼を忘れるな」 「ありがとうございます、虎哥」  信一は頭を下げ、嬉しそうにテーブルからチョコレートを取った。  銀紙に包まれたチョコレートを物珍しそうに眺め、包装を外して頬張る。十二もその様子を見て、食べてもいいと判断したのか、遅れて一つ取って口にする。 「これ、おいしい! あ……、虎哥、ありがとうございます。おいしいです」  まだ頬をもごもごさせながら、十二は言った。気にするなと首を横にしたところでテーブルに茶が置かれた。 「この前くれた茶だ。うまいな、これは」 「そうだろう。廟街でいい品を仕入れる問屋がある」  阿風は椅子に戻ると、チョコレートを一つ食べた。十二はもう一つチョコレートを頬張っていたが、俺にちらりと視線を投げる。どうして俺がチョコレートを食べないのかと気にしている。表情、特にわずかに力が入った目元にそう表われている。誰かに持ってくるくらいなのだから、このチョコレートはとてもおいしいはず。こんなにおいしいものを他人にはあげるのに、自分は食べないなんて大人は変わっている、そう思われてそうだ。その視線に気がつかない振りをして、茶を飲んで席を立つ。 「今日は急に来て悪かった。ご馳走になった」 「俺こそ助かった。よければ、またいつでも来てくれ」 「そのときは土産を持ってくる。信一、十二、土産は気に入ったか」 「はい。おいしいです」  はにかみながら答える信一を、十二はチョコレートを頬張ったまま待ってと言いたげに見つめる。慌てた様子で飲み込んで口を開く。十二の唇はチョコレートで汚れているままだった。焦らなくともいいのに、と口元が緩む。 「俺もおいしかったです。嬉しいです」 「喜んでもらえたなら、何よりだ。残ったお菓子は二人で分けて食べてくれ」  店から出る俺に阿風がついてきた。店の外に出ると、耳打ちしてくる。 「今日は来てくれて本当に助かった。信一も久しぶりに俺と二人きりになれて、安心したようだ」 「いるだけで役に立てたのならよかった」 「謙遜するな。次はいつ来る?」  また十二に会いに来るだろう? そんな確信を含んだ問いかけに、気が早いと鼻を鳴らして応じる。しかし、取った態度の反面、頭の中ではいつ予定が空いていたかを思い出していた。 「三日後、髭を整えて欲しい。午前の少し早い時間になる」 「分かった。食事は?」 「昼なら空いている」 「じゃあ、ぜひ昼も食べていってくれ。阿虎が来てくれると信一も、十二も喜ぶ」  見え透いた嘘だ。思わず力なく息を吐いて、笑ってしまう。引き攣れたような声は金属が軋むようで不気味だ。片目を失い、目立ちにくいが顎や喉には傷跡が残っている。常にサングラスで目元を隠し、声が歪んでいる俺を怖がるのは理解できる。喜ばれるところが一つもないからだ。精々、このあたりで手に入りにくいお菓子を持って来るところが、子どもにとって嬉しいことだ。 「おい、阿虎、俺を疑うのか? 冗談じゃない。今のあの子たちは俺以外の大人とあまり接していないから、誰か頼りにできる大人によく懐くんだ」 「そうか。俺でいいのか、心配になる」 「俺の友人の中でも、廟街の虎哥ほど頼りになる者は滅多にいないのに? 子どもが相手だと、さすがの虎哥も調子が狂うか」  阿風は煙草に火をつけた。俺も煙草を取り出し、火をつけてもらう。 「子どもの相手は慣れていない。接するだけでも、いろいろと考えてしまう」 「どんなことを?」  煙を吐く。顔を上げて、天井を見る。煙が淀んでいる。手を伸ばせば届く。行き詰まっている。 「もしあの子どもを引き取れば、本人にも、周りにも影響がある。これからを考えれば、俺が引き取っていいのかとさすがに迷う。だいたい、今まで世話を見てきた手下たちは、あそこまで幼くなかった。手下ではなく養子として育てても、黒社会に関わらせてしまうのに変わりない」 「お前の好きにしてくれ。虎哥なら、十二を自由に育ててくれると俺は信じている」 「そうしたい。だからこそ、悩んでしまう」  くだらないな。二度ほど吸っただけの煙草を捨て、踏み消した。  いくら悩もうが、俺が黒社会の者であることに変わりない。俺がどんな形であっても十二に手を貸せば、黒社会との関わりを持たせてしまう。つまり、俺にできるのは非情にも見捨てるか、自分の選択が十二を黒社会に関わらせると理解したうえで手を貸すか、このどちらかだけだ。こんな二択で悩むのは、あの子どもを引き取りたいからだ。自分が選んだ黒社会の道を抜け出す気が微塵もないくせに悩むなど、時間の無駄だ。肺に残っていた煙を細く吐き出す。 「近いうちにどうするか決めよう。幸い、俺の家には空き部屋がある。子ども一人くらいならいつ来ても構わない」 「感謝しきれないな。いい返事を待っている」  頷き返して、俺は阿風に背を向けた。  外に出るまでになぜか十二の眼差しを思い浮かべていた。あの眼差しが、これから俺と縁があったせいで黒社会に関わり、曇ってしまうことは許し難い。ただ、このまま放っておいては、外に捨てられたガラス玉のように風や砂で傷つき、濁り、いずれは曇っていく。俺のように義眼であれば、何も変わることもなく、風化もしない。扱いに疎むほど苦しい復讐心や怒りを携えて、生きていくだけなのだが。  あの子どもは、これからいくらでも変わっていく。  周りの環境と人々で変えられてしまう。  難しいものだ。いつの間にか手を握りしめていた。十二に触れるのを恐れてか、手を取りたいと思ったのか、俺自身でも分からなかった。






公開:2026年10月4日

更新:2026年10月4日

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