サンプル
虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ
『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。)
「境の歳に飼い飼われる仮初」(書下ろし)
二
いつも通りの時間に目が覚める。カーテンの隙間から差し込む明るい陽射しで、今日は晴れだと分かる。水が流れる音がわずかに聞こえてくるが、誰が風呂に入っているのだろうか。日課のトレーニングを終えた十二が入るには、まだ早い時間帯だ。
浴室に向かう。中に入ると、ちょうど風呂場から十二が顔を出す。
「おはよう、虎哥」
「おい、出てくるな。着替えるまで、俺は外にいる」
「どうして? 俺は気にしない」
平然と風呂場から出て体を拭き始める十二に溜め息をつき、洗面台に向かう。別にじろじろ見るわけでも、見たいわけでもないが、ここまで他人の目を気にしないものかと心配になる。俺は自分の体にある傷や入れ墨をあまり他人に見せたくないため、気軽に肌を出すことに抵抗がある。周りの者も近い感覚を持っているはずだと、十二にも押しつけてしまっているが、最近の若者は気にしていないのかもしれない。
水を出して口をゆすぎ、顔を洗う。簡単に髪を整えて、洗面台の正面から横に移ると、服を着た十二がドライヤーをかける準備をする。俺はその隣で髪を櫛で梳く。
「風呂に入るのがいつもより早いな、もうトレーニングは終えたか」
「うん。今日が楽しみで早く起きたから」
「そうか。時間が経つのは早いな」
「虎哥も、龍哥も、いつも言ってる。俺がここに来て、もう二年経ってるのに」
「たった二年だ。お前も大人になれば分かる」
「大人になれば分かるって、それもいつも言ってる」
丹念にタオルで髪を拭っていた十二はヘアオイルをつけて、ドライヤーを持つ。髪を梳かし終えた俺は、浴室を出ようとしていた。
「虎哥、トレーニングをしてから、朝食を買ってきたんだ。先に食べてて」
「分かった。ありがとう」
「いいよ。俺、これくらいしかできないから」
そんなことはないと口を曲げたが、そのときにはスイッチの入ったドライヤーの音が浴室に響き、何も言えなかった。浴室から出て、自室に戻り着替える。義眼を入れて、階下に下りる。大きなテーブルがある部屋に向かうと、いい匂いがした。まだ部屋には誰もいないが、テーブルの上にはここに住んでいる人数分の料理が入った容器が置かれている。もう少しすれば、手下たちが起きてくるだろう。俺は新聞を持ってきて座り、誰かが来るのを待った。
しばらく待っていると、何人かの手下たちと髪を乾かした十二がやってきた。そこで新聞を置き、俺は朝食を食べ始める。十二は俺の隣に座って、手下たちと話しながら料理に手をつけ始めた。十二と手下が話しているとき、歳の近い者同士の話に割り込むべきでないと、俺はほとんど口を挟まない。話を聞くだけだ。
「十二、今日は朝からめかし込んでどうした?」
「おい、忘れたのか。今日は十二の誕生日だろ」
「うん、そう。誕生日だ! 楽しみで早く起きたから、時間をかけて支度した」
「うっかり忘れて悪かった。もうそんな日か。早いな。何歳になった?」
「十五! これで大人だ」
ちらりと顔を左隣にいる十二に向けると、得意げに胸を張っていた。手下たちはおかしそうに笑い出し、俺もつい口元が持ち上がっていた。
「何で笑うんだよ。おかしいこと言った?」
「俺たちからすれば、まだまだ子どもだ。危ないことはするなよ」
「しないって。危ないことって何? 煙草は吸わないし、酒も飲んでない」
「煙草と酒はやってないが、喧嘩はどうだ。少し前に九龍城砦で信一とやらかしたばかりだろ。住民に絡んだ迷惑な連中に立ち向かったって廟街でも評判だ。子ども二人で大人三人を叩きのめすなんて、滅多に聞かない」
「相手が大人だろうが、困ってる人がいたから立ち向かうのは当然だ。俺と信一だけでやったのは危なかったけど、俺も信一も怪我しなかったし、その場も治まった。だから、いいだろ? それに、あとで龍哥と虎哥には、しっかり怒られた」
「分かった分かった。これ以上、とやかく言うつもりはない。とにかく、子どもは気をつけろってことだ」
「そうやって子ども扱いするの、やめてくれって」
口を尖らせつつも、十二は楽しそうに笑っている。ここに来たばかりの頃は歳上の手下たちに怯えて、俺の背中に隠れていたのが信じられない。十二も手下も話している間に朝食を食べ終えて、片付けを始める。そして、手下たちは部屋を出て仕事の準備に向かった。十二は残って茶を淹れてくれた。
「虎哥は、今日も仕事?」
「ああ。これから事務所に行ってくる。夕方には切り上げて、お前を迎えに行く。それまで好きなだけ九龍城砦で遊んでこい」
「ありがとう。夕方までには虎哥を驚かせるくらい、おめかししておくから。楽しみにしてて」
「夕食は龍哥たちと食事するのを忘れるなよ。せっかくの誕生日だ。渡した金は好きに使っていいが、あまり妙な格好はするなよ」
「俺、そんな変な格好したことある?」
「いや、ないな。若い者の流行や趣味はよく分からないが、お前はセンスがいい」
十二はにかりと笑って、そうだろと目を細める。ふわりと癖のかかった毛先が揺れた。艶のある髪だ。十三歳のときの彼は、乾燥して傷んだ髪がみすぼらしかったことさえ忘れてしまいそうだ。もう二年も経ったと十二は言うが、たった二年でこの子はたくましく成長し、今では信一の隣に並んでも何の遜色もない青少年になった。武術で鍛えられた体つきも、しなやかな肢体も、好んでする小洒落た格好も、十三歳の頃の十二からは到底想像できない。ここまで無事に大きくなってくれてよかったと、茶を飲みながら感慨に耽ってしまう。
茶を飲み終えて、器をテーブルに置く。
「そろそろ、出かける時間か。十二、誕生日に欲しいものは何だ。まだ聞いていないが、決まらないのか。一応、誕生日のために金を渡したが、あれはお前が身嗜みを整えたいと言ったから渡しただけだ。誕生日に欲しいものは別にあるだろうな」
すると、十二は目を見開き、視線を揺らす。頰が赤くなっていく。言いたいことが喉に詰まっているのだろうか。
「えっと、決めてはいるけど、まだ言えない。覚悟ができてなくて、迷ってる」
「決まったらまた教えてくれ。誕生日には贈り物を渡したいからな、親から何かもらうのが嫌になったわけではなさそうでよかった」
俺は立ち上がり、部屋を出る。十二もついてきて、玄関まで見送りに来た。玄関で待っていた手下たちは俺を見て、数人が先に出ていって車に乗り込んだ。
「虎哥、行ってらっしゃい。気をつけて」
「ああ。十二も気をつけろ」
手を振っている十二へ片手を上げる。手下たちと車に乗り込むと、エンジンがかかり発進していく。外ではまだ十二が手を振って見送っている。十三歳のときから変わらないなと、頬を緩める。車が通りを曲がると、十二は見えなくなった。
いつも十二は俺を見送ってくれるが、あそこまでしなくともいいと何度言ってもやめようとしない。黒社会に属しておらず、俺の手下でもない十二には、見送りなどする義務も義理もない。もしや黒社会に入りたいと考えて、手下たちの真似事でもしているのかと悩んだ時期もあったが、単にしたいからやっているだけらしい。しかし、俺も十二にとやかく言える立場にいない。外に出るたび、十二に何か土産を買ってしまう。十二はもう子ども扱いするな、土産がなくても大人しく留守番していると言うが、喜ぶ顔が見たく土産を買うのをやめようとは思えない。
着いた事務所では、外に出かける前の手下たちが退屈そうに煙草を吸うか、ラジオを聞いていた。俺が入るとすぐに、虎哥と呼んで近寄ってくる。
昨日の夜にあった揉め事や、薬物の流通に関する懸念、廟街で金の支払いが滞りそうな店の報告だ。俺はそれを聞きながら机に向かい、煙草に火をつける。
手下たちの報告を聞いて、彼らが行う集金や廟街の見回りをどうするか指示を出していく。今日はたいした問題は起きていない。ここ最近の廟街は安定している。多少退屈だが、毎日仲間たちの血や怪我に慣れきってしまうよりはずっといい。しかし、俺も年を取ったものだ。多くの利益を得るために、危ない道を選ばなくなった。代わりに、手元にあるものを守り、利益は徐々に広げるよう立ち回っている。昔の俺が今の俺を見たら、ひどく退屈な考えをする臆病者めと罵ったに違いない。
俺の指示を受けて外に出る手下たちは全員出ていった。残ったのは、留守番と俺の護衛を兼ねた手下たちだけだ。午後からは外に出ている手下と入れ替わる形で外に出るため、今の時間は各々が好きに過ごしている。俺は帳簿の数字を確認し、会合や取引の予定を調整する。周りでは手下たちが午後からの見回りはどこを重点的にするか話し合い、あの売人は口より先に手が出て危なっかしいから何かあったときは気をつけろ、家賃を滞納している店がいくつかあるがまだ強く催促するには早い、もう少し待ってやれ、など情報共有をしている。仕事の話の合間に、前に開店したクラブがよかっただとか、流行の曲を歌いに行こうという砕けた話題も入ってくる。
いつも通りの適度な騒がしさと、黒社会としては気の抜けた穏やかさがある。代わり映えはしないが、きっといい日だ。危険を避けて退屈な日々を保つことに慣れていくのは、おそらく大人には必要なのだ。毎日何かしらの事件や揉め事が起こっていては、さすがに落ち着かない。
「そうだ、虎哥。今日は十二の誕生日ですけど、俺たちが何かしても?」
手下同士で話していたうちの一人が机にいる俺の方にやってきて、机に片手を置いて尋ねてきた。
「あまり高いものを渡すのはやめてくれ。俺の立場がなくなる」
「十五の子どもにそんなもの渡しませんよ。昼にどこかうまい店に連れて行くか、食べきれないくらいのお菓子でも渡して驚かせよう、ってくらいで」
「それはあの子も喜ぶ。好きにやってくれ」
「じゃあ、明日にでも準備して祝ってきます」
「今日ではないのか」
何気なく聞いた。すると、手下は肩を軽く上げて笑う。
「今日は、虎哥が十二を祝う日じゃないですか。俺たちが横入りして邪魔するわけにはいきません」
「邪魔? お前たちにしては、気にしすぎだ。どこでそんな遠慮を覚えた」
困ったように、彼は口元を撫でる。
「十二は虎哥に祝ってもらうのを、一番楽しみにしてますから」
「つまり?」
「俺たちが祝っても、十二はそれどころじゃないってことです。俺たちが祝ったら、むしろ虎哥が祝ってくれる思い出の邪魔になります」
「そういうものか。祝い事など、あればあるだけいいと思うが」
最近の子ども考えることはよく分からないとつぶやき、軽く頭を振る。手下も息を吐いて笑った。
「そうですね。俺も十二や信一を見ていると、つくづく思います。若い連中が考えることは、大人にはもう分かりません。でも、十二はそれだけ虎哥が祝ってくれるのを楽しみにしてるってわけです」
そう言って、彼は許しが出たから何をして祝うか決めるぞ、と周りの手下たちに声をかけて戻った。俺も仕事に戻る。夕方までには仕事を片付けておきたい。
「虎哥、明日に十二を祝うための準備と昼食に外に出ます。一緒に出ますか? 何か食べるものを買ってきますか?」
顔を上げると、ほとんどの手下がいなくなっている。普段は手下を連れ立って昼を食べに行くが、今日は仕事を進めておきたい。それに、手下たちも十二を祝う準備を見張られているようでいい気はしないだろう。
「そうだな、俺は仕事を進めておきたい。うまそうなものを頼む」
「分かりました。この前、おいしいって言っていた店に寄ってきます。でも、虎哥が一人で残って問題ないですか。誰か残していきますか」
話している間に、俺たち以外は誰もいなくなっていた。
「あの子を祝うのに、これほど人手がいるか?」
「当たり前です。十二は些細なことでも、よく喜ぶから、誕生日はとびきり喜ばせてやろうって全員が乗り気です」
「なら、今日は好きに行ってこい。今外に出ている連中と交代の時間までに戻ればいい。俺も護衛がいないと困るほど、耄碌していないつもりだ」
「そんなこと言わないでください。知ってますよ、俺たちがいなくても、虎哥は強いから心配は不要って」
それじゃあ失礼します、と片手を上げて出ていく。外からは、おい、置いていくなよ、どこに行く? と話し声が騒がしかったが、すぐに遠くへ去っていく。
俺は持っていた鉛筆を置いた。
煙草を取り出す。火をつけて一息つく。
誰もいない事務所は珍しい。深夜でさえも、何かが起こったときに備えて誰かが常に滞在している。話し声は外から聞こえるだけで、事務所の中に物音や人の気配はない。椅子から立ち上がる。背中や腕を伸ばしながら、机の後ろにある大きな棚に向かう。久しぶりだ、一人で彼らに向き合うのは。
友人、仲間、手下たちの名が刻まれた位牌がいくつも並んでいる。懐かしくも、申し訳なさが先立つ。俺はここにいるが、彼らはもういない。この世のどこにも。そう思うたび、寂しいなと溜め息をつきたくなってしまう。
はたして、この道でよかっただろうか。
よかった。これ以外に答えはないが、疑問を拭いきれたことはない。
俺が選んだのは、そのとき選べた最善の道だ。俺が最大限できることを、やりたいことをした結果だ。今はいない彼らがそうさせてくれた。
そう思い、信じるほかない。
俺が信じなければ、彼らの死は憐れになる。そんなことは許せない。
深く煙草を吸い、少しずつ紫煙を吐き出していく。
この中に十二の位牌がないといい。
ふと思い、くすりと掠れた声で笑った。
どうしてそんなことを考えたのか。
あの子は黒社会に入りたいとも、俺のもとにずっといるとも言っていないのに。平穏な家庭で好きなことを勉強したい、外に出てまっとうな商売をしてみたい、はたまた外国へ行ってあちこち見て回りたい、十二はまだそうした夢を見る年頃だ。
ここに十二の位牌を並ばせるつもりはない。もしも、あの子が黒社会に入ったとしても、俺のために死なせるなど、考えたくもない。
くだらない。
不吉で、嫌な想像だ。
本当に耄碌したのかもしれない。年を取るのは嫌なものだ。少なくとも、俺が生きている間は十二の位牌をここで拝むつもりはない。
しかし。
煙を吐き出す。
海の深いところに溜まった澱が揺れ、流れ、舞い上がるように記憶がいくつもよみがえってくる。
窓から差し込む陽射しで、紫煙は白く染まり、形を変えて、漂う。
ふと、阿風の声を思い出す。
「信一が黒社会に入りたいと言い出した」
十二もそう言い出すときが来るかもしれない。
そのとき、俺はどうするだろうか。
分からない。
とめるか、認めるか。諦めさせるか、背中を押すか。
どこかに追いやってでも守るか、手元に置いて危ない道の伴をさせるか。
ただ、ここに立って亡くなった彼らを思い出し、その中に十二がいないよう手を尽くすだろう。そんな予感がする。
俺が後悔せずにできることは、それだけだ。
浅く煙草を吸う。鋭く息を吐いた。
煙は細く漂い、たちまち散っていく。
時間は過ぎていく。
何もかも変わっていく。変わらないものはない。
俺も、あの子も。
生きていれば、何かが変わる。変わらなくなるのは、死んだときだ。
生きていて、もしも時間や周りの変化にも押し流されずに変わらない、変えられないものがあったとするならば。
おそらく、それは大切なものだ。
そんなものがあれば、笑って諦め、連れ添い生きるしかないだろう。
残っていた煙を吐き出す。これが最後だ。
短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
公開:2026年10月4日
更新:2026年10月4日