サンプル
虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ
『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。)
「仔の不安を虎は慰む」(書下ろし)
一
泣きそうな顔をしている十二を見下ろす。この光景は長く記憶に残りそうだ。そんな予感がした。しかし、そんなものとは裏腹に、どんなに大切に思えた記憶も案外綺麗に忘れてしまうものだ。
「十二、いつでも遊びに来て。僕は待ってるから」
「うん、信一、絶対にまた来る。そのときには、薬物もやめる。約束する」
泣くのを押し堪えて強張った顔で話す十二と信一を、阿風と二人で見守る。大人にしてみれば、何年も会ってなかろうがたいしたことではない。また会えば、久しぶりだと言って話すだけで、何年もの空白など忘れられる。だが、子どもにしてみれば、もう会えないかもしれない、今生の別れにも等しい。俺が十二を引き取ると決めたときから、阿風は信一たちに二度と会えないわけではない、虎哥と会う用事があればできるだけ連れて行って会わせると言い聞かせてくれたようだが、それでも、二人が別れる日を簡単に受け入れられるわけがない。
「十二、そろそろ行こう」
右手を差し出すと、頷いて握ってきた。弱々しい手だ。信一には、謝るように涙の浮かんだ目を向けた。
「最後に写真だけいいか」
カメラを手にした阿風が言った。これでもう別れなければいけない。自分に言い聞かせているのか、信一と十二は素直に頷いた。阿風も寂しそうに目を細めてカメラを構えて素早くシャッターを切った。
「それじゃあ、十二、元気でな。あまり虎哥に心配をかけるなよ」
自信なげに十二は頷いた。そのまま俯いて不安そうだ。俺に心配をかけてしまったら、見捨てられてしまう、とでも考えていそうだ。
「おい、龍哥、子どもは大人に心配をかけるものだ。気にするなよ、十二。俺だって若いときは散々無茶をして、龍哥に心配させるどころか、呆れさせたくらいだ」
「懐かしいな。俺も同じだ。虎哥に何度も心配をかけるなとひどく叱られた。十二、脅かしてすまない。お前なら大丈夫だな。虎哥はいいやつだ。遠慮なく頼れ」
ようやく十二は顔を上げ、俺と阿風を交互に見つめる。目を細めて応えると、ぎこちなくも笑って頷き返した。
「行こう」
俺は小さな手を軽く引いた。扉を開け、俺は店を出る。十二が俺に続いて出ようとしたとき、店へと振り向いた。
「龍哥、信一、今までありがとう。再見」
「十二!」
信一が近寄ってきて、小さな紙袋を十二へ差し出す。
「これ、あげる。廟街でも元気でね」
手の甲で顔をぐいと拭った信一は、言葉を詰まらせながら言った。目元や頬が涙で濡れている。俺は外に出る通路へ顔を上げた。今の俺にできるのは、余計な口を挟まず、二人の傍にいるだけだ。
「ありがとう。信一も、元気で」
震えた声は、巣から飛び立とうとする鳥の羽ばたきに似ていた。うまくやれるか不安でいるが、それでも、いつかは飛び立たなければならない。大丈夫だと小さな手を握る。十二は紙袋を受け取ると、俺の手を握り返して通路に出た。扉を閉めてからも、店の中にいる信一と手を振り合っていた。諦めがついたのか、十二は信一に背を向けて歩き出す。
「もういいのか? 信一と話したいことがあるなら、まだ残っていてもいい」
「大丈夫。そろそろ行かないと、俺、あそこから離れられなくなりそうだった」
強い子だ。十二は顔を上げて笑ってみせる。赤くなった目元には鮮やかに寂しさが残っている。だが、大丈夫だと言った。それを俺が信じてやらなければ、十二も大丈夫だと思えない。これからどうなるか分からないが、彼が大丈夫と言ってそう思いたいのであれば、俺はその気持ちが揺らがないよう受けとめるだけだ。
店を離れてからは黙って歩いた。朝が早かったせいか、通路には人が少ない。食堂や商店が固まっている区画の方からは騒がしい声や物音の気配がする。先日、俺が相手になった売人どもの仲間については片をつけた。子どもに薬物を渡そうとした売人が、廟街の虎哥にやられたという噂も広がっている。俺や十二に、へたに手を出そうという輩はいない。もしもいたとすれば、よほどの命知らずだ。むしろお目にかかりたい。いや、十二といる今は余計なことはいらないな、と俺は目を密かに細める。この子の門出は、誰にも邪魔されたくない。
俺たちは外に出た。待たせておいた車の後部座席に乗り込む。車は舗装されていない道を走り出す。十二は後ろを向いて、遠ざかっていく九龍城砦を見つめていた。車が角を曲がったあたりで九龍城砦が見えなくなったのか、十二は正面を向いた。
「さっき信一から何をもらったんだ」
聞くと、十二は膝に置いた紙袋を開いて、中を見た。
「お菓子と、あと俺が欲しかったビー玉と、シール。信一も大切にしてたのに」
袋の底に探って、青色のビー玉を取り出し見せてくれる。
「餞別だな」
「せんべつ……」
「旅立ちを祝って渡す贈り物だ」
信一たちと別れたことに実感が湧いてきたのか。十二の睫毛が細かく震える。涙を留めるように大きく目が開かれた。
「信一はいい友達だな。大切にしなさい」
肩に手を置くと、十二は頷いてそっともたれかかってきた。別れに慣れるためか、十二は黙っている。伏せられた目から涙が流れていく。俺は何も言わなかった。今はどんな言葉も余計な装飾となって、いつかこの日を思い出したときの邪魔になってしまいそうだった。あえて記憶を飾り立てて覚えておくのもいいが、そんなものはまだこの子には不要だ。大人になれば、いずれ記憶には様々なものがつきまとって、忘れさせてくれなくなる。
車が廟街に差しかかる。十二の肩を軽く叩く。
「廟街だ」
そろりと顔を上げて、十二は外を見た。中心部の華やかな通りに目が丸くなる。
「初めて来たか」
「うん」
熱心に外を見つめる十二は、年相応の子どもらしい。車は中心部の大きな通りから少し入った建物の前で停まった。
「降りよう」
門で待っていた手下がドアを開ける。車を降りると十二もついてくる。あたりを見回し、初めて会う手下たちに驚いてその場に立ち尽くしかけた十二の手を取る。すると、彼は俺をはっと見上げて頷く。手を離し、俺の右側へと回って右手を握った。この子は俺の右目が見えないのを知ってから、ずっと補おうとしてくれる。気持ちは嬉しいが、左目の方にいてくれないかとも思ってしまう。俺としては、目の届く範囲にいてほしい。
手を引いていくと、玄関前では家に住み込んで手伝いをしている手下たちが待っていた。
数人の手下たちに戸惑ったのか、十二は俺の手を強く握って寄り添った。握っている手を指でそっと撫でる。扉を開き、中へ入る。
「ここが俺の家だ。手下たちが警備がてら住んでいる。家事手伝いも来る。困ったことがあれば、遠慮なく誰かに頼りなさい」
出迎えてくれた手下たちも中に入ってくる。事前に十二が来ることを伝えていたため、いい兄貴として慕われたいのか。いつもの厳しい顔つきではなく、慣れていない愛想を浮かべて簡単な自己紹介をしていく。十二もたどたどしく挨拶を返した。その緊張している様子を見て、手下たちは必死に装った愛想が裏目に出ているとやっと気がついたらしい。わざとらしく外で仕事があったんだと言い、そそくさと下がっていく。手下たちが全員いなくなっても、十二は緊張した様子で立ち尽くしていた。
「怖がらなくていい。一見、顔や振舞いは怖いかもしれないが、根は優しい兄貴分たちだ。まだ緊張するだろうが、そのうち慣れる」
「はい、虎哥」
心細そうに言う十二は、無理もない。どうしたものかと、握りしめられた小さな両手を見る。緊張が解けるまで待つのもいいが、じっとしているより、動いている方が気が紛れるかもしれないと、小さな手を取って家の案内に向かった。
台所や応接間、仕事場を兼ねた居間、食事のために何人も入れる広間、庭を回っていった。十二は初めて訪れる場所を覚えようとしてか、あまり話さずにあちこちを見ていた。二階へ上がり、風呂と客間を案内する。俺の部屋を教えてから、最後に廊下を挟んで向かいにある部屋の扉を開けた。
部屋はどこか慣れない匂いがしている。買ったばかりの家具や、変えた内装の匂いだろうか。真新しいカーテンがかかった窓からは陽が差し込んでいる。白いシーツがかけられたベッドも新しい。きちんと畳まれた毛布がベッドに置かれ、隣には何着か衣類が畳まれている。机と椅子、棚といった家具は売られているものをそっくりそのまま持ってきたかのようだ。使われて古びた雰囲気はこの部屋にはどこにもなく、すべてが整っている。この部屋は十二のために用意した。
「ここが、お前の部屋だ」
隣に立っている薄い背中に手を添えると、顔を上げた。頷いて入るように促す。おずおずと部屋に足を踏み入れた。机の上に信一からもらった紙袋を置いてから、部屋をあちこち見回していく。俺はカーテンを開けて、陽射しを入れた。そのとき、上着の裾を引っ張られる。そちらに振り向くと、困ったように眉を寄せた十二が俺を見つめていた。
「どうした」
「虎哥、俺、九龍城砦から何も持ってきてない。どうしよう」
「何もいらないと言っただろう。気にするな。向こうに置いてきたものは、また龍哥たちのところに泊まりに行ったときにでも使えばいい」
「でも、何か持ってくればよかった。お金だって、龍哥がくれたお小遣いがあったんだ。ごめんなさい、俺、どうしたらいい?」
今十二が尋ねているのは、これからどうすればいいのか、という疑問ではない。迷惑をかけてしまった、どうすれば俺の機嫌を損ねないかと不安がっている。
「安心しろ。必要なものはこれから用意すればいい。金の心配はいらない」
「でも、わざわざ用意してもらうなんて」
「今日から廟街で暮らすんだ。せっかくの機会だ、新しいものを買えばいい」
何度か頭を撫でて答えを待っていると、ようやく十二は頷いてくれた。
「虎哥、ありがとう」
「どういたしまして」
面映ゆいのか十二は俯いて、ちらりとベッドを見やる。寝心地が気になっているのだろう。のってみるかと言う代わりに背中に手をあてる。
すると、十二は嬉しそうに大きく頷いた。ベッドの端に勢いよく飛びのり、体を倒して寝転がった。
「すごい、いい匂いがする。柔らかい」
横に体を転がして仰向けになり、ベッドからぶら下げた脚をぱたぱたと動かす。満面の笑みが浮かばせながら、腕を広げてシーツを撫でている。ここまではしゃぐのは初めて見るが、まるで警戒心を解いて腹を見せる猫のようだ。
「昨日、シーツを洗っておいた。一人で寝れそうか?」
「うん、大丈夫。龍哥に助けてもらってからは信一と一緒に寝てたけど、それまでは一人で寝るときもあったから」
寝転がっている十二の隣に腰かける。十二は脚の勢いを使って起き上がり、俺の隣に座った。
「薬物の離脱症状で苦しいときもあるだろう。何かあったら俺の部屋に来い。手下も何人か住み込んでいる。困ったときはいつでも頼ってくれ」
「分かりました」
「俺の子になったんだ。気を遣って話さなくていい。疲れるだろう」
「うん、分かった」
素直に答えた十二から、ようやく緊張した様子が抜けてきた。気が緩んだのか、小さな体に反して腹が大きく鳴った。腹を押さえた十二の顔が赤くなった。
「朝が早かったから腹が空いたな。手下たちに朝食を買ってきてもらっている。食べよう」
立ち上がると、十二もついてくる。そのまま階下にいって朝食を食べた。それから家の周辺を案内しながら、十二の身の回りの品々を買った。新しい服と寝巻き、靴、歯ブラシなど足りていないもの、勉強に使う本や文房具。暮らすのに必要なものを目につき次第買っていくうちに昼になった。知らない場所を歩き回ったせいで十二が少し疲れた顔をしていたため、昼食を買って家で食べた。午後は溜まっていた書類を片付けていた俺の隣で、十二は買ったばかりの本を読むか、ノートや文房具を机に広げて嬉しそうに眺めていた。
中庭ならここからでも目が届く。中庭だったら外に出て遊んでもいい、ずっと家の中にいてもいいのかと何度か聞いたが、ここがいいと言って、結局俺の傍から離れなかった。俺は子どもの頃に、屋内でじっとしていた記憶がほとんどない。自由な時間さえあれば外で駆け回って遊んでいたせいで、十二は家で退屈していないのかと気になってしまった。
日が暮れかけた頃、銃には気疲れが出たのか、机に突っ伏して眠り始めた。その顔はときどき庭にやってきて日向で眠っている猫とよく似て、無防備だった。さすがに心配になる、と羽織っていた上着を背中にかけてやった。夜は夕食を手下に買いに行かせた。俺と十二は家で夕食を食べ、手下たちには外に飲みに行かせた。
手下たちは全員十二より歳上で、ほとんどが成人している。信一のように、子どもが気心許して遊べる相手ではない。そのせいか、十二は手下がいると緊張して、俺の傍から離れず、背中に隠れて出てこなくなってしまう。今晩ばかりは手下たちの気晴らしも兼ねて外に行ってもらったが、毎日こうするわけにもいかない。これから十二が手下たちと打ち解けられるか心配だ。そんな気がかりの一方で、俺と二人きりでいる十二の夕食の食べっぷりは見事なもので、見ているだけで腹が膨れそうだった。
そのあとは風呂に入れてやった。香港ではあまり見ない大きな浴槽に十二は目を輝かせ、髪を洗ってやるとくすぐったかったのかくすくすと笑っていた。失敗は、俺が風呂に入れたせいで、背中の入れ墨を見た十二が怯えたように息を飲んで何も言わなかったことだ。そのとき、一緒に風呂に入るべきではなかったと後悔した。気を遣わせたか、怖がらせたとすれば、悪いことをした。
「これからは、なるべく一人で風呂に入りなさい」
風呂に浸かりながら隣にいる十二に言う。すると、十二は背中を丸めて顔を前に出して俺の顔を覗き込んでくる。
「どうして。俺がいたら」
迷惑、邪魔。そういった言葉が続く前に、濡れた髪の毛を撫でて後ろに払った。
「大人がずっと傍にいたら、子ども扱いされているようで嫌じゃないか?」
「分からない。俺、一人でいることが多かったから、誰かといられたら嬉しい」
「だが、いつも誰かが傍にいたら、俺や手下がいないときに一人で風呂に入れなくて困る。できるだけ一人でやってみなさい」
頷いたものの、あまり納得がいっていないのか視線を落としてしまう。いつだったか阿風が最近の信一は十二の兄貴ぶりたいのか背伸びをしてあまり大人を頼ってくれない、背伸びしたい年頃なのは分かるが親離れは寂しいものだと、ぼやいていたのを思い出す。この子は信一よりも幼いところがあるようだと言いたくなった。
幼いのは悪いことではない。人は身体、気質、得手不得手など全員が違う。生まれ持っているものが違うのだから、育ち方も当然同じではない。十二はまだ俺を頼ってくれそうだと得意な気分もあるが、頼ってもらえるからとあれこれ手助けしては、学ぶ機会を取り上げてしまう。
なるべく機会を用意するつもりだが、年相応に自立を促すべきか、保護者がいない環境に長くいて寂しい思いをしていた分甘えさせてやるべきか、迷いもある。信一の成長は見てきたが、十二は信一ではない。十二を育てるためには、この子に向き合ってどうするかをよく考えなければならない。
「そろそろ出よう。顔が赤い。のぼせる」
肉付きの薄い頬を撫でる。十二は小さく頷き、俺に続いて風呂から出た。体を拭いたあと、髪をドライヤーで乾かしてやる。
「龍哥みたいにうまくできなくて悪いな」
乾かした髪を手で整え、鏡に映る十二を見る。
「そんなことない、俺がやるより絶対にいい。自分でやると、なかな乾かない。だから、いつも龍哥か信一がやってくれて、いつになったら一人でできるんだって言われてた」
「それなら、これも一人でやれるようにならないとな」
細い髪の毛をくしゃりと撫でてから指で梳くと、鏡の中で十二が目を細めた。顔が赤くなったのは、のぼせたわけではないようだ。
「俺も髪を乾かす。今日は疲れただろうから、もう部屋で寝ていていい」
ここで待つと十二が言い出す前に、背中を押して廊下に出した。寂しそうに顔を曇らせていたが、あまり過保護に接するのもよくないと自身に言い聞かせる。何をするにつけても傍にいてしまうと、この子を自分に依存させてあたかも手駒のように仕立て上げようとしているのではないかと勘繰ってしまう。
廟街に来た十二が心細い思いをしていて、大人に甘えたい気持ちは分かる。かわいがってやりたいが、実は俺が十二を手懐けたいと心のどこかで企んでいるようで、どうにもいい気分になれない。
髪を乾かして廊下に出る。出たすぐ横で十二が壁にもたれかかって立っていた。どうしてここにいるんだと、その場に立ち尽くしまう。俺が何も言わないせいで、怒られると思ったのか。十二は俯いて背中を丸めた。
「ごめんなさい、言うことを聞かなくて」
「寒くないのか。俺を待たなくてもよかった」
驚きこそしたが、怒ってなどいない。できるだけ穏やかに言ったが、嗄れた声は堅苦しい。もし俺が怒りを抑えていると十二に誤解されたらどうするつもりだと、自分の声が恨めしかった。
「虎哥、……一緒に寝てもいい?」
「ああ。そのために待っていたのか」
「勝手に人の部屋に入ったらだめだから」
「そうだな。さっき言ってくれれば、俺の部屋で待っていてもよかった」
遠慮せず言ってくれとどれだけ伝えても、まだ難しいか。
俺に甘えても怒られない、気兼ねなく頼れると思えるまで、こんなことを頼んでもいいのかと不安が十二にはつきまとう。
「すまない、忘れていた。お前の部屋だが、まだ寝泊まりには使わない方がいいそうだ。数日前に部屋の内装を新しくしたときの薬品が残っているからだそうだ。しばらくは俺の部屋で寝てもらうつもりだった」
こんな理由はわざとらしすぎるか。俺は気遣いも演技もへたでいけない。もし阿風と阿秋に見られていたら、もっとうまくやれと怒られてしまいそうだ。
「十二、言い忘れていて悪かった。一緒に寝よう」
「ありがとう、虎哥」
「気にするな。頼ってもらうのが大人の仕事だ」
十二の肩に手を置いて、俺の自室へと向かう。
部屋に入り、十二をベッドに向かわせる。義眼を外して机にある箱にしまう。
その間、ベッドでは十二が座って待っていた。
「いつも、ああやって義眼を外すの?」
「そうだ。つけるところも見たいか」
「虎哥が嫌じゃなければ」
「それなら、楽しいものではないが、いつか見せてやろう。もう寝れそうか」
「うん」
頷き返し、明かりを消してベッドに横になる。ベッドに座っていた十二もカーテン越しに差し込むかすかな光を頼りに、俺の隣に来た。
壁を背にして端に寄る。こういうときに抱き寄せられればいいのだろうが、気安く触るのは躊躇われた。この子が欲しいと思ったが、べたべたと身体に触れて、自分の都合のいいように接して、所有物として扱いたくない。立場や年齢に差があろうと、そこにつけ込んで誰かを好き勝手に扱っていいわけがない。
しかし、俺が取った距離を十二は呆気なく詰めてくる。まだ出会ってから日の浅い大人をそんなに信じるのか、と苦笑しかける。きっと阿風が十二の面倒をよく見てくれていたのだろう。阿風の義兄弟だからと、俺を信頼してくれている。
「虎哥」
体を丸めて胸元に寄り添ってくる。顔を上げて見つめてくる。甘えてくる猫のようで、つい背中に手を回して撫でてしまう。
「今日は慣れない場所でがんばって、疲れたな。よく休め」
「うん」
小さな頷きが胸元から伝わる。眠くて気が緩んだのか頭を擦りつけてくる。ここにいる、大丈夫だとそっと抱きかかえる。自分が深く悩む前に、優しさだとか、気遣いみたいなもので、自然と動けたのが意外だった。
「おやすみなさい、虎哥」
少しすると寝息が聞こえてきた。俺も目を閉じた。小さく細い体だが、温かい。
寝息や体温を感じていると、かわいいものだと頬が緩みかけた。浅い溜め息をついて隠す。誰に見られたくなくて隠しているのか分からないのがおかしくて、結局また笑ってしまったが。
信一を育て始めた阿風が、子どもを育ててみないかと言っていた理由が分かってきた。大切なものが増える。この感覚は確かに得難い。同時に、俺はこの子を守れるのか、この子にとって俺はいい親なのだろうか。そんな不安が、小さな背中を抱えている手のひらに滲む。
いくら先を案じようが、どうにもならない。今はそんな不安に囚われずに、この子に向き合う以外にできることはない。背中をもう一度撫でる。手のひらにあった不要な感情は、体温で追いやられていく。
「おやすみ、十二」
外から車の音がする。目を開ける。
視界には丸まった子どもがいる。くせのかかった髪に指を通して撫でた。カーテンの隙間からは朝日が差し込んでいる。今日は仕事や用事を入れていない。まだ眠っていてもいいが、習慣で起きてしまった。この子を起こすには早すぎる。どうしたものかとあくびを噛み殺しながら、十二を眺める。
しかし、俺が起きたことで何かを感じ取ったらしい。シーツに何度か頬を擦りつけたあと、十二は背中を伸ばす。眠そうに目を開けてあたりを見回す。
「起きたか」
「虎哥」
ぼんやりとした目で俺を見つめてくる。
「ここは廟街だ。思い出したか」
「うん。少し驚いたけど」
「早い時間だ。眠いならもう一度寝てもいい」
「虎哥が起きるなら、俺も起きる」
「それなら、起きて、朝食を食べよう」
俺たちはベッドから起き上がり、顔を洗いに行く。十二は自分の部屋に行かせて、着替えてから俺の部屋に戻って来るように言った。俺も部屋に戻って着替えた。着替え終えたとき、扉がおそるおそるといった様子で軽く叩かれた。俺は扉を開けて十二を中に入れる。
「十二、昨日言っていたのを見せてやろう」
箱から義眼を取り出し、十二に見せる。何をこれから見られるのか。気がついた十二は目を大きく開いて、興味津々なのを隠しきれないのかじっと義眼を見つめる。指先で摘んだ義眼を右目に運び、空洞に滑り込ませるように入れた。もう慣れた作業に過ぎないはずだった。それが今日はいつもと違う感覚がした。十二の視線や興味が右目に義眼と一緒にするりと入ってしまったのか、わずかにくすぐったい気がした。
「面白かったか?」
「うん、すごかった。こんな風になってるんだ」
「怖くなかったか」
「どうして? 虎哥の義眼も、それを入れるのもかっこいい」
こんな欠けた目をかっこいいなど、言われたのは初めてだ。どこがいいのかよく分からないが、きっとこの子は何か気に入るところがあって、好いてくれたのだろう。俺にとっては過去の忌々しい傷で、後悔ばかりが先立つが、この子に気に入ってもらえるのならば悪くはない。
義眼を収めた右目は、いつの間にか笑っていた。
公開:2026年10月4日
更新:2026年10月4日