サンプル
虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ
『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。)
「仔の不安を虎は慰む」(書下ろし)
二
胸元で何かが震えている。
薄目を開ける。部屋はまだ暗い。明け方なのか。窓の方がわずかに明るい。
さっきの胸元の感覚は夢か、気のせいか。そう思いかけたが、抱えている十二が小さく呻き声を上げた。背中を撫でてみる。まるで凍えているかのように体が小刻みに震えている。十二が俺のもとに来たのは、つい一昨日だ。環境の変化に緊張し、負担がかかって体調を崩したか。
それとも、今までは具合がよかったが、薬物の離脱症状が出たか。どちらにしても心配だ。手探りで小さな体を抱き寄せる。背中は汗で濡れていて、寝巻きのTシャツが体にはりついている。
息が喉で掠れる音が聞こえた。細い肩が大きく跳ねて、両腕が俺の胸を押し返してくる。俺は腕を緩めて距離を取った。
「十二、どうした。具合が悪いのか」
「だめ、来ないで、虎哥」
ベッドを蹴って俺から離れようとする十二は、額に汗を浮かべ、両腕を振って何かに抵抗しているようだった。
「お願い、近寄らないで」
俺は体を起こす。十二の体がバランスを崩してベッドから落ちそうになる。暗闇に慣れた目は、その動きを辛うじて捉えていた。
考えるより先に腕が伸びていた。十二の片腕を掴み、引き寄せる。
「ごめんなさい、離して、虎哥は、俺といたらだめ」
「落ちるところだった。どうしたんだ、離脱症状か」
パニックになりかけている。
俺はベッドに座り、十二を脚の上にのせて彼の背中を胸元に寄りかからせた。十二はどうにか俺から離れようとしてもどかしげに身動ぎながらも、頷いた。
「また、噛んじゃう。虎哥を傷つけたくないのに」
震えている十二の右手首を掴み、腕を伸ばす。真新しい噛み跡や引っかき傷が腕にいくつもある。無意識にか、離脱症状に耐えようとして、よほど強い負荷がかかったのだろう。傷には血が滲んでいる。自身で引っ掻き、傷つけてしまっている。そのとき、びくと背中が跳ねて丸まった。
「う、う……やだ、ぐっ……!」
頭を何度も振って呻き出す。手足を振り乱し逃げようとするのを、咄嗟に抱えて押さえつける。呼吸は荒く、苦しそうだ。かちかちと歯が鳴っている。
「虎哥、はなして、一人にして。おねがい」
「傍にいる。大丈夫だ。苦しいなら言え。俺はできるだけお前の力になりたい」
抱きかかえた細い体のどこにいったいこんな力があったのかと思うほど強く、十二の体が俺の腕の中で身動ぎ抜け出そうとする。
遠慮なく頼ればいいものを。いったい何がこの子に、他人を頼れないようにしてしまったのか。
俺が知り得ないこの子の過去が原因なら、噛み切ってやりたいほど憎らしい。この子の過去には頼れる相手も術もなかったのだろう。迷惑をかければ嫌われて、見捨てられる。そういった恐怖で弱みを誰にも、いや、頼りたい誰かにこそ見せられないと考えている。かつてはその相手が阿風と信一で、今は俺になったのだ。
「……虎哥、たすけて」
かすかな声に、俺は頷いた。強く抱きしめる。
十二の右腕が震えながら持ち上げられる。腕は彼の口元に向かう。また噛むつもりだ。自分を押さえるために。小さな口が開く。鋭い犬歯は、薄暗い部屋で光るように白かった。
咄嗟に自分の左腕を十二の口に押しあてた。寝巻きがあって、直接噛まれることはない。大丈夫だ。
そう思っていたが、遠慮のない強さで噛まれて、歯が腕に食い込む。十二は自分の腕を噛むつもりでいたのだろう。
強張った口元で息を吐いた。この子は自分自身によくここまで容赦なくできるものだ。噛まれたのが俺でよかったと思うほどの痛みが腕に走る。おそらく、十二には自分を大切にする意識がないせいで、できてしまったのだろう。
察してしまった十二の心情のせいか、痛みのせいか、俺は口元を歪める。
十二は驚いたのか呻く。その弱々しい声を聞いて、自分の口元は安心させるためにすぐ元に戻った。
「大丈夫だ。十二。落ち着くまでじっとしていればいい」
しかし、十二はおずおずと俺の腕から口を離した。体はまだ震えていて、背中は丸くなっている。
「ごめん、なさい。ごめんなさい」
「気にするな。痛くない」
「縛って、虎哥……俺、周りの人を傷つけたくない」
腕にぽたぽたと涙が落ちた。薬物を断つために、本人も苦しむが、周りにいる者も大変だとはよく耳にする。事実、俺も黒社会で幾人も薬物に苦しんだ人々を数えきれないほど見てきた。薬物をやめるために牢屋のような部屋に閉じ込めてもらう者、鎖や縄で押さえつけてもらう者。この子は周りを傷つけるくらいなら、一人だけで苦しむ方を選ぶつもりだ。薬物依存症の子ども一人に、人手をかけて何になる。手っ取り早く体を押さえつけて、どこかに閉じ込めて放っておけば強引に薬物を断たせることができる。確かに、十二の選択は正しいのかもしれない。
だが、俺は十二を放っておきたくなかった。それがどれだけ正しくない選択で、その選択がどれだけ感情的で合理的な理由がなかろうとも。
「離脱症状で苦しいときは、俺が傍にいる。龍哥たちもそうしてくれただろう」
「うん。でも、龍哥と信一に、俺は怪我をさせた。虎哥にも」
「黒社会で怪我はよくある。俺のことは気にするな。それより、十二が傷つくのが許せない。悪いな、俺は身勝手なんだ」
そんなことはない、そう言いたいのか十二は何度も首を横に振った。その動きで額と顔からは汗や涙が飛び散った。ひどい汗だ。俺は十二を抱きかかえたままゆっくりベッドから立ち上がり、机に置いてあったハンカチを取る。
「これを代わりに噛め。他のものがいいか」
尋ねると、首を横にして俺が差し出したハンカチを噛んだ。ベッドに戻った。十二と一緒に横たわる。
「落ち着くまで待とう。具合が悪くなったら、何でもいい、とにかく教えてくれ」
不安そうに背を丸めた十二は機嫌を窺うように、俺の胸元に頭を寄せてくる。上目遣いで見てくる顔は本当に怒っていないか、さっき噛んだ腕は痛くないかといった心配で硬くなっている。
「俺のことは気にするな。大丈夫だ」
背中に腕を回してそっと抱きしめる。噛まれたところには痛みが残っているが、傷になっていたとしてもかわいいものだ。少なくとも、片目を失い、声が歪になるほど深い傷ではない。あのときの戦いで失ったものを思えば、どんな傷も痛みも、たいしたものではない。それに、十二は悪意をもってやろうとしていない。この痛みに対して、十二の過去への悲しみやどうにもならない苛つきはあるが、この子への怒りは微塵もない。
「具合が悪くなったか、俺が傍にいるのが嫌なら、ハンカチを取れ。俺がお前の具合が悪くなったのに気がつかなかったら、噛んでもいい。苦しいのを我慢するな」
鼻を啜る音がする。丸まった背中を撫でる。弱々しく震えている。背骨や肋骨が寝巻きの上からも分かる、痩せた体だ。もう苦しみをこの体だけに押し込んで隠そうとするな。そう言う前に、胸元でかすかな頷きが返ってきた。
それから、ずっとベッドで十二を抱きかかえていた。ときどき寒そうに体を震わせるたびに毛布で包んで抱きしめ、額の汗を拭ってやった。十二は声も出さずに泣いていて、胸元やシーツが涙で湿っていく感覚で泣いていると分かった。早く楽にならないかと思っていたが、なかなか治まらない。
カーテンの隙間から差し込む陽射しがぼやけたものからくっきりしていき、通りの方から車の音がし始めたとき、ようやく小さな寝息が聞こえてきた。階下では手下が朝食を買いに行ってきたのか、誰かが出入りして動いている物音がした。
誰かが起こしに来るまではこのままでいよう。俺もあと少しだけでも眠ろうと目を閉じた。その割に、これからどうすればこの子ができるだけ苦しまずにいられるか、そればかりを考えてしまい、眠気は訪れそうになかった。
十二が来て離脱症状を起こした日から一週間ほどは、俺ができるだけ家にいて様子を見ていた。仕事は書類仕事か、電話で済ませられる用件だけで、揉め事の対処や交渉は場馴れした手下に任せた。しかし、このままずっと家で書類を片付けながら、電話番をしているわけにもいかない。
以前は、手が空いていないときだけ荒事は部下に任せるだけで、些細な厄介事でも俺が外に出て直に片付けていた。阿風と阿秋からは後進の面倒を見て、そろそろ大人しくしたらどうだと忠告をされ、手下たちにも俺が表で動き過ぎていて、いつか大怪我をするんじゃないか肝を冷やすと言われ、引き際を探していた。十二を引き取ったのも何かしらの契機だろう。
手下を安心させるためにも仕事を任せてみるいい時機だと、どうしても俺が出る必要がある仕事以外は誰かに任せることにした。俺が必要な重要な用にだけ顔を出し、上がいないと廟街の立場が保てないときだけ外に出るようにしたが、今のところは問題ない。だが、いつかは綻びが出る。本来ならば入念に手下たちに情報や段取りを共有し、知識と経験を引き継がせて、時間をかけて少しずつ任せていくものなのだ。
今は手下たちが何とかうまく立ち回ってくれているが、それができるのは阿風と阿秋が共通の知り合いに、俺が子どもを引き取って大変らしい、今は大きな仕事を頼んだり、酒の席に誘ったりするのはやめておけと事情を説明してくれているからだ。この状況は決して長く続かない。
そして、阿風と阿秋の配慮はありがたいが、ある問題も起こしてくれた。二人の説明のおかげで、虎哥が子どもを引き取ったということは、後継者をようやく見つけたのか、その後継者はいったいどこが秀でているのかと、事あるごとに周囲から聞かれるようになってしまったのだ。そのたびに、それは誤解だ、後継者にするつもりはないと答えているが、手応えはなく信じてもらえていない。
廟街の外では、俺に後継者がまだいないと言う話が信じられなくても構わない。しかし、廟街の内では信頼に関わる、重要な問題だ。
手下の中でも、特に多くの手下をまとめて頭馬になるのではないかと噂されている者が真に受けて、機嫌を損ねてしまったのは大変だった。急に子どもを引き取るなんて聞いていない、後継者を育てるつもりなら言ってくれ、後継者といった重要な事柄を手下に言わないなんて信頼していないのかと、まっとうな訴えをされてさすがの俺も自身の気まぐれを謝らざるを得なかった。旧友の龍哥から頼まれた手前もあり、子どもを引き取るのを断るのを先延ばしにして会ううちに気に入ってしまっただけで、後継者にするつもりはない。もし黒社会に関わりたくないと子どもが言い出したのなら、里親を探すつもりで引き取った。本人が望まなければ、進んで黒社会に関わらせるつもりはない。手下たちにはそう説明したが、あまり納得してもらえなかった。
結局、俺が周りに相談せずに子どもを引き取ったことに納得がいかない手下たちには、直接十二に会ってもらった。
手下たちは子どもに会うとは到底思えない強面を下げてやってきたせいで、十二は俺の背中に隠れてしまい、そろそろと顔を出して挨拶するのがやっとだった。そうした子どもらしいかわいげのある様子とは裏腹に、服から覗いた細い腕や脚には、離脱症状でつけてしまった引っ掻き傷や噛み跡が痛々しく残っていた。さらに服の上からでも、痩せて骨が目立つ十二の身体を見て手下たちはすぐに察した。
この子には、黒社会で生きていく力がない。まずは生き延びることが最優先なほどに弱っている子どもだ。しかし、九龍城砦の龍哥のもとには、既に信一がいる。この子の世話も見るのはさすがに難しく、子どものいない俺のもとにやってきただけで、後継者云々は関係ない。後継者の話は、単なる噂だ。
黒社会から十二が離れたいのなら、引きとめるつもりは一切ない。俺の意図は、十二に直接会わせてやるだけで、手下たちには容易く通じた。
手下たちの多くは黒社会で生きる以外の選択がなかった者たちで、程度の差はあれど苦労人だ。早くに親や頼れる親戚を喪った、暴力を振るわれて育ったといった事情で、頼れる身寄りや住む家はおろか、帰る場所すらない、そんな過酷な経験をしている。富や権力を求めて自ら望んで黒社会に入った者でも、周りから苦労話や貧困街での荒んだ生活を見聞きしてよく知っている者ばかりだ。そのため、彼らは同じ苦労をしたか、辛い境遇の相手には優しい。特に、まだ幼い子ども相手には。
手下たちは俺の背中からそっと顔を出して窺う十二を怖がらせないよう、強面を慌てて崩して、似合わない笑みを浮かべてぎこちない挨拶をした。勝手に後継者だと誤解して目の敵にしたのを申し訳ないと思っているようで、警戒心を解こうと必死で話しかけたり、偶然持っていたお菓子を渡したりと、慣れないことをし始めた。
その態度の変わりように、俺はつい笑ってしまいそうだった。最初のうちは十二も戸惑っていたが、相手が怒っていないと分かってからは俺の背中から前に出て、少し緊張した様子ではあったがお菓子をもらい、たどたどしくも礼を言っていた。
十二が単なる子どもで、廟街の虎哥の後継者などではないと知った手下たちのうちで、俺は十二が懐いた手下と子どもの相手がうまい手下の何人かを選び、俺がいないときの留守を任せることにした。俺が仕事で外に出ているときに、十二に離脱症状が出ても世話ができるほど面倒見がよく、信頼できる者を探していたからだ。せっかく廟街に住んでいるのに、十二が俺とばかり接していては九龍城砦からここに来た意味が薄れてしまう。できるだけ多くの人々と接して、視野を広げてほしかった。
一応、十二を学校に行かせられないかとも考えてみたのだが、離脱症状が出たとき本人ですら何をするのか分からず、周りの人々を傷つけてしまう可能性がある限りは難しい。もし誰かを傷つける事態が起きれば、傷ついた誰かも、十二自身も心に傷を負う。それだけは避けたかった。加えて、十二の勉強も同い年の子どもと比べてかなり遅れているのも問題だ。同い年の子どもたちの学年に突然放り込まれても勉強に追いつけずに苦労して、学校に行くのはおろか勉強すら嫌だと言わせてしまえば、本末転倒だ。
迷った末に、手が空いたときは俺が教え、離脱症状が落ち着くまでは勉強が得意な手下を呼んで家庭教師代わりになってもらった。たとえ離脱症状が落ち着いたとしても、黒社会、ましてや廟街の虎哥のところに教えに来てくれる家庭教師など滅多にいない。しばらくはこの状況が続くだろう。だが、このまま勉強できる機会がないよりはましだと妥協した。
そうして十二を育てるために周りの環境を整えながら、俺は少しだけ仕事を元通りにさせていった。以前なら自分で片付けていた仕事の半分は手下に任せ、残りは俺がやるようにした。代わりに、やるべき仕事はなるべく日中に済ませられるものにして、夜遅くまでの会合や人付き合いの場に行くことは避けるようにした。働き過ぎだと周りから常々言われていたのもあるが、十二がいつ離脱症状で具合が悪くなるか分からない。できるだけ傍にいてやりたかった。
今晩も阿風と阿秋とお互いの仕事や近況を話すために食事をしたが、酒はほとんど飲まずに食事と世間話だけで帰らせてもらった。二人とも子どもを育てた経験があるおかげで、早く帰ってやれと気遣ってくれてありがたい。ただ、阿風が十二とうまくやっているようだなと言いたげに、にやりと笑っていたのは気が食わなかったが。お前が、俺と十二を会わせたくせに。
どうせ阿風は自分が信一をかわいがるのと同じように、俺が十二をかわいがっているのを見て、俺が道連れになっているのを楽しんでいる。いつかやり返してやりたいが、子どもの世話を見るという点では、阿風の方が経験がある。きっとあいつはいつまでも子育ての先達ぶって、ずっと得意げな顔をしているのだろう。
廟街に向かって走る車に揺られながら、仕方がないやつだ、と溜め息をつく。一方で、信一を小さい頃から育てているだけあって頼りになるのも間違いない。そこが一層癪だが、物騒な黒社会に身を置いている身として、子どものことで相談できるのは助かる。俺に似た立場で養子を育てている者はなかなかいない、もうしばらくは我慢してやろう。口元を緩めて、もう一度気の抜けた溜め息をついた。
煙草を取り出し、火をつける。そろそろ家が近い。帰って十二の顔を見る前に煙草を吸っておきたかった。あの子は俺が帰ってくると飛びついてきて、煙草を吸っていると火傷をさせてしまいそうなのだ。車の速度が緩やかになったところで、半分ほどになった煙草を吸うのをやめた。家の前で停められた車から降りて家へと向かう。
中に入ると、駆けてくる軽い足音も「虎哥」と呼ぶ元気な声もない。代わりに留守を任せていた手下の一人が急いでやってくる。
「どうした。十二の具合が悪いのか」
「はい、離脱症状が出て。部屋で我慢していますが、やはり虎哥がいないと不安そうです」
「すぐ行く」
二階へ向かい、十二の部屋に入った。中ではベッドの上で毛布に包まり、膝を抱えて横になっている十二と、ベッドに座って彼の背中を撫でている手下がいた。俺が入ると、十二は獣めいた勢いで顔を上げて見つめてくる。
ハンカチを噛んでいた口が開く。
「虎哥……」
俺が帰るまでに、泣き腫らしたのか掠れた声で呼んでくる。ざらついた声は弱々しく、ベッドに落ちたハンカチに残った歯型には苦痛がありありと残っている。急いで近寄って両腕を広げて差し出すと、十二も腕を上げてしがみついてくる。抱き上げて背中をさすると、しゃくりあげる声が聞こえてきた。
「帰るのが遅くなってすまなかった、十二。がんばったな」
ぐすぐすと鼻を鳴らして、十二は何度も首を横にする。宥めるにはもう少し時間がかかりそうだ。近くにいる手下に顔を向ける。
「十二を見ていてくれて助かった。あとは俺が見る、お前は休んでいろ」
手下に手短に伝えると、頷いた。十二を刺激しないように気遣って、手下は何も言わずに頭を下げて部屋から出ていく。俺も部屋を出て自室に向かった。十二をベッドに下ろし、手のひらで涙を拭う。
「どうして泣いている。どこか痛いのか? 具合が悪いのか」
十二は首を振った。
「俺がいなくて不安にさせたようだな。それで離脱症状が起きたんだな」
言った途端、丸い目が大きく開かれて大粒の涙がこぼれ落ちた。
「苦しかっただろう。すまない」
「ごめん、なさい。迷惑かけて、ごめんなさい」
「謝るな。俺の帰りが遅かったのが悪い。できるだけ早く帰るようにする」
ベッドに座って、十二を抱き寄せる。ここに来てから年相応によく食べているおかげで重くなった。それでも、まだ体の線は細く、触ると骨の感触が目立つ。
「虎哥は悪くない。俺、迷惑かけたくないのに、虎哥がいないと、不安になって、離脱症状が起きて……、薬物をまたやりそうで怖い」
「薬物を断つのは大人でも難しい。お前はまだ子どもだ。不安になるのも当然だ」
汗と涙で額や頬にはりついた髪を払い、頭を撫でる。
体の震えはとまらず、歯がかちかちと鳴っている。少し前は落ち着くまでハンカチを噛ませていないと自分や周りの者を傷つけそうになっていたが、近頃は症状が軽くなってきたのかハンカチを噛ませている時間が短くなってきている。今ではこうして話している方が気が紛れるのか、黙っているよりも離脱症状が治まるのが早い。
「でも、兄貴たちがいてくれるのに。虎哥がいないと、不安になるのが嫌だ。兄貴たちは優しくて、虎哥と同じくらい俺を心配してくれるのに」
俺以外にも頼りになる相手がいてよかったと思うと同時に、わずかに優越感を覚えてしまう。子ども染みた浅はかな感情に息を吐く。俺を一番頼ってくれて嬉しいなどと、ひどい感情だ。この子が苦しんでいるのに。
「兄貴分をあまり気にするな。お前に悪気があるなんて思っていない。むしろ、お前が頼ってくれて嬉しいと話していた」
「どうして? 俺、迷惑ばかりかけてる。役にも立てない」
「こんなに歳の離れた弟分は今までいなかった。だから、頼られると本当に弟ができたみたいだと」
「弟、俺が? 俺でもいいの?」
「どうしてだめなんだ? 俺の子だ」
十二は目を丸くして、俺をまじまじと見つめる。そして、恥ずかしそうに小さく頷いた。
「兄貴分がいても、俺がいないと、何が不安になるか分かるか?」
「帰ってこないかもしれない、って考えるから……俺を、嫌いになって、帰ってこなかったら、って」
それは杞憂だと言えたら、どれだけいいだろうか。言うのは簡単だが、慰めにすらならないのは分かりきっている。十二がそう考えてしまうのは、かつて薬物が理由で親から縁を切られ、見捨てられた記憶のせいだ。まずはその過去によって十二に染みついた、自分は誤ったことをしたら見捨てられてしまう存在だ、という考えを少しずつ変えなければならない。長い時間がかかるだろう。
「十二。その考えを変えろとは言わない。だが、俺はできる限りお前の傍にいる。必ず帰る」
鼻を鳴らした十二は俺を見つめたまま頷き、俺の胸元に額を擦りつけてくる。信じてくれとは言わない。約束するとも。余計な言葉は必要ない。ただ俺は、自分ができることをするだけだ。
「俺、いつも虎哥や兄貴たちを困らせているのに?」
どうしてこんなことを言うのか。子どもがやることで、周りの者たちに嫌われて、見捨てられるとでも思っているのか。
「何をして困らせたんだ? お前はいい子だ」
「俺、役に立てない、手がかかる。……ハンカチも何枚も噛んで使えなくした」
か細い声だ。ハンカチが何枚だめになったかなど覚えていない。そもそも数えようとすらしていない。そんな声を出させてしまった方が、よほど心苦しい。
「そんなことより、お前が心配をしている方が困ってしまう。子どもはそんなこと、考えなくていい。俺や兄貴たちに頼って、元気にしているだけでいい」
「でも、ごめんなさい」
そう言って、目を伏せてしまう。いるだけでは邪魔だから、何か自分に価値がないといけない。誰かに必要とされる価値が自分にはない。そうとでも考えて、自分を責めている。
「もう謝るな。俺は十二がいるだけで十分だ。ああ、いいものがある」
帰ってきて、そのままの格好でここに来てよかった。上着の懐を探り、飴を取り出す。さっき食事したとき、十二への土産だと阿風からもらったのだ。九龍城砦で、よく十二が好んで食べていた飴だと聞いている。
「土産だ。龍哥からもらった」
十二は俺の胸元から顔を上げる。目元は赤くなっている。何度か瞬き、差し出された飴を見つめる。受け取ってもいいのかと首を傾げて俺を窺ってくる。自分は悪い子なのに、どうしてもらえるのか。躊躇いもなく受け取っては、図々しいと怒られやしないか。そんな不安や迷いが顔色に滲んでいる。
飴の包装を取って口元に持っていく。すると、大人しく口を開いた。食べさせてくれるのならもらってもいい、そんな少し無防備な様子がこの子が本来持ち合わせている気質だ。嫌われる、怒られる、捨てられる、そんな懸念は一切持たず、何も警戒せずに甘えてくれればいい。根気強く付き合って、この子が変わっていくのを見るのも楽しいだろう。飴で膨らんだ頬を指でそっと撫でる。
「九龍城砦ではよく食べていたと聞いた。お前が好きな味だと龍哥は言っていたが、おいしいか?」
「うん。この味が一番好きだったから、よく信一と龍哥がくれた」
甘いものを食べて気分が晴れたようで、懐かしそうに話し出す。
「廟街でも売っている店を探しておこう。甘いものが好きか?」
「好き。でも、おいしいものは何でも好き」
「そうか。なら、これから俺が出かけたときは土産を買ってこよう。そうすれば、俺が帰るのを待つのが多少は楽にならないか」
慌てたように十二は何度も首を横に振った。
「いい、大丈夫。何もいらない。俺、虎哥と一緒にいられるだけでいい」
「俺が渡したいだけだ。このままだと、龍哥にいいところを取られてしまうのも癪だからな、俺も少しはいいところを見せたい」
「でも、お金がかかるから」
金がかかると言っても、子どもの小遣い程度だ。別に負担でも何でもない。やりたいからやるだけだ。重い話ではない。軽く受け取ってほしいと冗談めかして笑ってみるが、十二は眉間を寄せて、ごく小さく頷いた。頷きたくないが、否定するのも申し訳ない。そんな気持ちが手に取るように分かった。
「土産より、早く帰ってきてほしいか」
「……うん。俺が九龍城砦にいたとき、虎哥はいつもお土産を持ってきてくれた。もういいんだ。俺、虎哥と一緒にいたい」
「親になっても渡したいんだがな。分かった、帰りが遅くなるくらいなら土産はやめよう。俺もできるだけお前の顔が見たい」
血の気が引いて青ざめていた十二の頬が赤くなっていく。気がつけば体の震えも治まっている。離脱症状が出ているときはよく歯を鳴らし、ひどいときには口を噛みしめて開けなくなるのだが、今は口元が緩んで、はにかんでいる。
「顔色がよくなってきた。調子はどうだ」
「うん、そろそろ大丈夫そう」
「安心した。飴を食べたら歯を磨いて、寝る支度だ。もし待っていられるなら、俺が風呂を出るのを待っていてくれ。一緒に寝よう」
さすがに子ども扱いしていると不貞腐れてしまわないか、密かに気にしつつ言っているのだが、俺の不安とは裏腹に十二は何度も頷いた。
「眠ければ、このまま俺の部屋で寝ていていい」
「寝る支度をして、ここで待ってる。絶対に寝ない。起きて待ってる」
「眠かったら寝ていなさい。寝ないと大きくなれない。信一くらい大きくなりたいんじゃないのか」
「でも、虎哥を待ちたいんだ」
俺にしがみついて顔を上げた十二は、信一の背に早く追いつきたいけど、虎哥と一緒にいたいとぼやく。
「ベッドで横になって待っていればいい。寝てしまっても仕方がない」
「俺が寝てても、虎哥は来てくれる?」
「もちろんだ。心配するな」
笑った小さな口元に、溶けて小さくなった飴が見えた。これがなくなったら歯を磨かせよう。
親としては早くこの子を寝かさないといけないが、俺が風呂から出たときに起きて待っていてくれないかと、期待してしまう。俺は悪い親だなとごく軽い溜め息を交えて微笑み返した。
公開:2026年10月4日
更新:2026年10月4日