サンプル
虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ
『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。)
「境の歳に飼い飼われる仮初」(書下ろし)
四
ケーキを食べ終えて店を出る。外は暗く、冷たい風が髪にぶつかってくる。いい夜だ。阿風と信一を見送るために、ここに来るのに使った車まで戻る。車が見えたところで、阿風が俺の腕を軽く叩いた。何か話したいことがあるようだ。
「十二、先に信一と車に行っていてくれ」
「分かった。先に行って待ってる」
十二と信一は軽く手を上げて、車へと歩いていく。阿風が煙草に火をつけた。
「どうした?」
「今日は誘ってくれてありがとう。いい日になった」
「水臭いな。信一の誕生日に、俺たちを呼んでくれるのと何が違う」
「そうだが……」
まるで口元を隠すようにゆっくりと紫煙を吐き出す。俺も煙草を取り出すと、阿風がライターを差し出して火をつけた。
「信一が黒社会に加わったのを知っているだろう。まだ見習いみたいなもので、正式に俺の手下になったわけではないが、誘いにくかっただろ」
「なぜだ? 黒社会の付き合いで、お互いに対立している状況でも、十二と信一が仲たがいしているわけでもない。十二の誕生日に黒社会は関係ない。お前は十二の恩人で、信一は友達だ。そんな二人を誘うのに、躊躇う理由があるのか」
「まったくそうだ。本当に。阿虎、お前はいいやつだ」
「いいやつ? 勝手に言ってろ。俺は単に気ままで気難しい虎だ。周りにどう思われようが好きにさせてもらう。誰が何と言おうが、俺はやりたいようにやるだけだ」
思いきり煙を吐いた。口の中に残っていたケーキの甘さと混じったせいで、慣れた煙草も今だけはよそよそしい味がした。
「そういうところが、いいやつだ。来年もあの子たちの誕生日を祝えるといいな」
「そうだな。黒社会に関わっていない十二を呼びにくいかもしれないが、信一の誕生日はぜひ誘ってくれ」
「……ああ、そうしたい」
ごくわずかに、答えが遅れて返ってきた。そんな気がした。あとは帰るだけで疲れが出たか、気が緩んだか。それだけとも考えられるほど、些細な反応だ。どうしたと聞こうとしたときには、もう阿風は歩き出して車に向かっていた。そして、俺へと振り向いた。ちょうど吐き出された煙で、阿風の口元は見えなかった。まだ言っていない、何かがあるのか。聞こうか迷ったが、結局俺は黙って歩いた。阿風は聞いてほしくない、そう感じ取っていた。
車に戻ると、後部座席のドアが開いていた。中には信一が座っていて、外で立っている十二と話していた。風で冷えると信一を先に車に乗らせたようだ。
「信一、龍哥が来た。そろそろだな」
「時間が経つのが早いな。楽しかったからだな。次はいつこっちに来る?」
「時間があったらいつでも。また遊ぼうな」
そう言って、十二はじゃあと手を上げて車から離れ、に阿風が車に乗り込んだ。
「虎哥、今日はありがとう。十二も九龍城砦に遊びに来てくれて楽しかった。いつでも遠慮せずに来て、顔を見せてくれ」
「うん、俺も龍哥と過ごせて楽しかった、ありがとう。また遊びに行くから」
「よかったな、十二。龍哥、信一、気をつけて」
車のドアを閉める。軽く手を上げると、阿風と信一も手を振り返してくれた。発進した車は通路を抜けて表通りの方へと去っていく。
帰ろうかと周りにいる手下たちを向くと、十二が左腕にしがみついてきた。最近はこうして甘えてくることも減っていたが、まだ子どもだと笑ってしまう。
「虎哥、二人で一緒に帰ろう。昔、俺をここに連れてきてくれたときは、いつも二人きりだった。懐かしいだろ?」
十二は耳元に顔を近づけ、囁いてくる。
「分かった。おい」
手下たちに声をかけ、十二に掴まれていない方の腕を上げる。俺の腕にしがみつく十二を見た手下たちは、にやりと笑って頷いた。
「少し酔った。酔い覚ましに、風にあたってから帰る」
「護衛は問題ないですか」
「ああ。十二がいる」
「それなら大丈夫ですね。十二、虎哥を頼んだぞ」
「任せてくれ!」
俺が手を振ると、手下たちは車が走っていった道を歩いていった。静けさが訪れ、左腕にしがみつく十二の体温が伝わる。家につながる細い通路へ足を進める。周囲に人の気配はない。ときどき、周りの家屋から話し声や生活音が聞こえるくらいだ。
「どうした、久しぶりに。子どもみたいじゃないか。朝に、一五は大人だと言っていなかったか」
「大人のつもりだけど、たまにはこうしたい。虎哥は俺がいると邪魔?」
「そんなことは言っていない」
「帰ったら一緒に寝てもいい?」
「好きにすればいい。部屋に来るなと、俺が言ったことがあったか」
「ない。でも、もう俺は大人になる。子どもだったらいいのかもしれないけど」
「俺にとっては、お前がどれだけ大きくなっても子どもだ。親はずっとそうだ」
そう答えると、十二は腕にさらに強くしがみついてくる。左側を見ると、かすかな光を反射した澄んだ瞳に真っ直ぐ見つめ返された。暗い中でも輝くような眼で、とても嬉しそうだ。肩に頬が擦り寄せられる。軽やかに弾んだ吐息が首にあたった。
今晩はよく十二の顔が見える。
どうしてかと考えかけて、あまりにも簡単なことに気がついた。
そうか、十二は義眼ではない左目の方にいる。
この子はいつも俺の欠けた視界を補うように、右の義眼側にいる。それが日常として、すっかり馴染んでしまっていた。
「無理に俺の右目を気にしなくていい。これからは好きにしろ」
「え? どういうこと?」
「片目しか見えないせいで、子どもに気を遣わせたくない。いつもお前は俺の右側にいるだろう」
「それだって好きでやってるから大丈夫だ。今は安全で、周りを気にしなくていいから、こっちにいる。さっき、見張りをしてた兄貴たちに聞いて、この道には誰もいない、店の周りをうろつく妙なやつもいなかったって確かめたんだ」
その返事に、俺はふっと息を吐いた。口元は笑っている。
軽率に安全などと言わず、俺が離れている間に手下に聞いていたとは。根回しがうまく、気が利いている。確かに子どもではなくなりつつある。
「大人になったな」
「だろ? 少しは成長してるんだ。だから、……今日は虎哥に俺を見てほしい」
左腕に回されていた十二の腕が緩んで、少し体が離れる。十二はその場でステップを踏んで、くるりと体を回す。まるで踊るように傾いた十二の半身が、俺の左側から前へと現れた。
「どう、似合ってる? 今日の格好は変じゃないよな」
器用に後ろに向かって歩いたまま、首を傾げて尋ねてくる。
「似合っている。ピアスも洒落ている。若い頃の俺が見たら、真似していた」
満足そうに十二は胸を張る。どこか恥ずかしそうに頬を赤らめて笑う表情は、かわいらしい。再び十二は俺の腕にしがみつき、はにかみながら顔を覗き込んできた。
「危ない、前を見て歩け。お前は見えている、大丈夫だ」
「ありがとう。俺、虎哥に会えてよかった」
頷き返した。俺こそ十二に会えてよかったと思っているが、なぜか重荷になってしまいそうで言えなかった。
「そうだな。薬物も断って、たくましくなった。本当によかった」
左腕が塞がっている代わりに、顔を寄せて十二の額に頬をあてた。すると、嬉しそうに十二は額を頬に擦り寄せる。くせのかかった前髪が触れてくすぐったかった。
家に帰ると、先に帰っていた手下たちが遅い夕食を食べていた。
「虎哥、無事のお帰りですね。十二は護衛の務めが果たせたみたいだな」
夕食を囲んでいた手下が声をかけてくる。十二は彼らに駆け寄っていく。
「教えてくれた通り、誰もいなかった。けど、ちゃんと護衛の役目は果たした。これで少しは兄貴たちみたいになれたかな」
「経験はまだまだだ。それでも、自分からやりたいって言って、危ないかどうか考えて最後までやった。初めてなのによくできたな」
「やった、あとはもっと強くなればいいな」
「そうだな」
十二と話している手下たちに、腕を上げる。
「あ、虎哥はもうお休みですか」
「風呂に入ってあとは寝る。俺の代わりに、十二に構ってやってくれ」
そう言うと、十二は何か言いたげだったが口元を手で押さえて、頷いた。
「俺、虎哥のあとに風呂に入る。九龍城砦で信一と遊び過ぎて疲れたんだ」
「さっきは聞けなかったな。どれだけ遊んできたのか、明日にでも聞かせてくれ。あとは頼んだ」
「はい、虎哥。分かりました。あとは任せて、ゆっくり休んでください」
浴室に向かう。背後では十二と手下たちの話し声が聞こえてくる。
「十二、明日は俺たちが誕生日祝いにうまいものを食べに連れて行ってやる」
「本当? ありがとう、楽しみだ。どこに行くんだ」
「それは行ってからのお楽しみだ。でも、うまいのは確かだ。ん? お前、ピアスを開けたのか」
「そう、九龍城砦に遊びに行ったときに。虎哥も似合ってるって。いいだろ」
「ああ、いい。少し前まで子どもっぽかったのに、すっかり最近の若者だ」
弾んだ十二たちの声に自然に口元が緩んだ。自室で準備をして風呂に入った。部屋に戻り、ベッドの脇に置かれている棚の上には、読みかけの本が一冊と、気に入っている本が数冊置かれている。義眼を外しベッドに上がり、読みかけの一冊を取る。適当にページを捲る。だいたいこのあたりまで読んだと捲ったページの厚みで判断し、前に読んだおおよそのところから再開する。
本を読むのが特別好きなわけではない。ただ、音から離れたいときがある。街の喧騒、人の声、通りを行き交う車両、ラジオやテレビの音、クラブで流れる流行歌。ときに、誰かの泣き声、悲鳴、呻き声、断末魔。
何かを読んでいると、そのときだけは静かになる。周囲からすべての音が消えたように。実際には風の音や通りの音が波のようにざわめいているが、意識にまで浮上してこなくなる。武侠もの、伝記、詩集、旅行記など、普段の生活と関わりが少ないものを読むと、精神だけでもどこか遠くへ行った気分になる。それがいい気分なのか、好ましいのか、分からないが、落ち着くことは確かだ。
扉を叩く音がした。意識が引き上げられて、周囲に音が戻ってくる。本を閉じて元の場所に置いた。立ち上がり、扉を開けた。
「虎哥、どうしたの? いつもは入れって言うのに」
「誕生日だから、特別に迎えにきた」
十二を部屋に入れて、部屋の明かりを消した。ベッドに戻って横になる。端に寄ると、隣に十二が横になった。毛布をかけてやると、背中を丸めて寄り添ってきた。首や顎にくせのかかった髪が触れる。石鹸の匂いがした。
「一緒に寝たいなんて、何かあったんだろう」
吐息が胸にあたった。張り詰めた呼吸が、静かに聞こえる。緊張している。ピアスを開けた耳を触らないよう気をつけて暗闇で手を伸ばし、十二の髪を撫でる。
「誕生日の贈り物、決まってるんだ。実は、ずっと前から考えてた」
「何だ、言ってみろ」
「虎哥と一緒にいたい……俺、黒社会に入って、虎哥の手下になりたい」
息が詰まった。
胸が苦しかった。言葉を探して、舌と唇が震えた。
呼吸を押し出す。そうすれば、人の体は勝手に息を吸う。
緊張、不安、焦燥。そんなものを気取られないよう、呼吸を調整する。十二の髪を撫でる手がとまっていた。再び手を動かす。
とうとう来たか。煙草が吸いたくなった。
そうか、阿風が別れ際に残したわずかな違和感は、おそらくこれが原因だ。俺が知らなかった十二の望みを、あいつは知っていたのだ。どこかで悩みを聞いてやって、俺に言おうか迷っていたのだろう。
舌打ちしたくなった。
まったく、何に苛ついているのか。自分がおかしかった。調子が狂っている。
今になって戸惑っている。覚悟していたはずじゃないのか?
分かっている。俺が最も苛立っているのは、覚悟をしたつもりでいたくせに、本当は何も心構えができていなかった自分だ。
「……虎哥?」
首元に十二が寄り添って、不安げな声で聞いてくる。
自然と自らの口元が動いた。黙ってはいられない、逃げてはならないと、思ったのかもしれない。
「自分で決めたのか」
「うん。信一と龍哥にも相談した。二人とも、それはいいとは言わなかった。後悔しないか、誰かに唆されていないか、自分で考えたか、そういうことをよく話して、決めたんだ」
阿風が別れ際に迷っていたのは、十二から相談されたことを俺に話すか、話さないかの二択だ。そして、話さないと決めた。相談されたことを俺に伝えると、十二を裏切ると判断したのだろう。何事にも律儀な阿風らしい。
「そうか。その意思はありがたい。だが、まだ少し早いと俺は考えている」
「どうして、信一だって、もう」
「信一も、まだ正式ではないと龍哥からは聞いている」
「でも」
不貞腐れたのか、胸元に頭が押しつけられた。
「俺、虎哥といたいだけなんだ」
「少し早いと言っただろう。駄目だとは言っていない」
顔が上げられて、胸元に触れていた頭が離れた。目線を下げると、暗闇に慣れた目が十二の顔を捉える。十二は目を見開いて、嬉しそうに歯を覗かせて笑っている。
「一五は働くか、仕事に就くか、考える頃だ。決めてしまうにはまだ早い。来年の誕生日まで、一六まで考えが変わらなければ、俺はお前の意思を受け入れる」
「変える気はない。約束して」
「約束などしなくとも、俺は言ったことを曲げない」
「そうだ、虎哥は嘘なんかつかない」
来年、恨まれても構わないと、この口約束を反故にしてしまいそうだ。それだけ、俺はこの子が大切で守りたいが、この子に何かを強制したくもない、特に、これから進む道を十二が選べないことは避けたい。ただ、好きなことをさせてやりたい。その選択で、俺がどれだけ後悔し、苦しんだとしても。
「一六になれば、もう大人だ。独り立ちする者もいる。よく考えろ。俺のもとを離れたければ、構わない。好きなところに行けばいい」
「そんなこと言わないで、俺は虎哥といる。お願い、俺をここにいさせて。役に立つから」
「役に立たないなら、いらないと言ったわけじゃない。お前を縛りつけたくない。何人も見てきただろう。子どもを自分の物のように扱って、自由にさせない大人を」
十二が頷き、髪が顎に触れた。ここまで甘えられて嬉しくないわけがない。それでも、彼の自立を邪魔していないかと不安になる。
執着も、依存も、自由に生きるうえでは邪魔になる枷だ。身軽であればあるほど、生きやすい。どこにでも行ける。誰にも、何にも、縛られずに。
この子はまだとても軽い。だが、俺は違う。今まで歩んで来た道で、多くのものを得て、それと同じほど多くのものを失った。道半ばで亡くなった仲間や友、負ったいくつもの傷、後悔、抜け出せない因果、手放せない憎悪、従える多くの手下たち、そして、この子。俺はずいぶん重くなってしまった。これからも重くなっていく。身軽になりたくとも、何かを背負う道を選んだからには戻れない。何かを捨てて軽くなる選択はできない。するつもりもない。
この子が重さを知るには早い。俺をいくら慕っていようが、傍にいる道をわざわざ選ばなくてもいい。まだ身軽でいてほしい。どこにでも行ってほしい。わざわざ重い荷を背負う必要はない。大人になれば、いずれは重くなるのだから。
「十二、俺の手下になりたいというのは、贈り物にしてやれない。来年までよく考えて、お前が決めろ。他に、誕生日に欲しいものはないか」
「考えてなかった。うーん……、あ、ピアスが欲しい。開けたところが治ったら、新しいのがつけられるから」
「自分で選ぶか?」
「虎哥に選んでほしい」
「分かった」
自分で選ぶか、信一と選んだ方がいいんじゃないか。思ったが、言わなかった。俺の手下になりたいという願いを聞いてやれない分、余計なことは言うまい。柔らかい髪をかき上げて、耳の後ろへそっと流す。暗闇でピアスが浮かぶように見えた。
「どうしてピアスを開けた」
何気なく尋ねる。眠かったのか。それとも、来年の十二が廟街を離れる道を選ぶ想像をして、寂しさを紛らわせたいとでも思ったのか。
「かっこいいから。それに、もしも俺が虎哥のもとから離れても、見つけてもらいやすいかと思ったんだ」
「……馬鹿なことを。そんなことしなくても、すぐ見つける。お前は、俺の子だ。どうして離れるなんて考えた」
「俺が手下になりたいって言ったら、最悪、廟街を追い出されると思ってた。……虎哥は、俺をあんまり黒社会に関わらせたくないみたいだったから」
顔を下げて、十二の額に自分の額を押しあてる。
「お前の機会を奪い取るような真似はしない。ここから追い出しもしない。だから、いつ、どこに行ってもいい。お前なら、俺の子なら、すぐに見つけられる。いつか廟街から離れても、いつでも帰ってこい。帰れなかったとしても、俺が探しに行く」
「ありがとう、父さん。嬉しい」
十二はもぞもぞと体勢を変えて、俺の胸元に収まるように丸くなった。ここに来たばかりの頃はまだ小さく、俺の胸元にすっぽりと猫のように収まっていたが、今ではつま先や膝がぶつかり、窮屈そうだ。それでも、器用に丸まって寄り添ってくる。背中を撫でてやると、くすくすと楽しげに笑い、肩や脚が震えた。しばらく撫でていると、寝息が聞こえてくる。
俺も目を閉じる。一年後、この子が一六になったとき、どんな道を選ぶのか。そのとき、俺が選んだピアスをつけているのだろうか。
どんなピアスが似合うだろうか。
寄り添う体温と、自分の体温の境目がぼやけていく。
俺が選んだものに後悔するなよ、文句を言わずに一度はつけろよ。そう思うと、口元が緩む。
そして、眠りについた。どこか懐かしく、穏やかな眠りだった。
公開:2026年10月4日
更新:2026年10月4日