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虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ

『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。) 「廟街の虎はある仔をのぞむ」(書下ろし)    三  見慣れた理髪店の椅子に座る。サングラスを外すと、阿風が受け取った。  鏡には義眼のはまった右目がある。俺は目を閉じた。失ったことに慣れたつもりだが、未だに直視するのは躊躇ってしまう。別に見てもいいが、好ましくはない。  椅子の背にもたれかかる。この右目にもとうに慣れたつもりだったが、まだ心のどこかでは、失った右目と声を諦めきれず、悔いているのかもしれない。普段は考えないようにしているが、右目の義眼や、顎や首に残った傷を改めて見てしまうと、俺が弱かった、失ったものは大きかった、と思い知らされる。 「髭を整えて、ついでに髪も毛先だけ切っておこう。阿虎にしては珍しく、少し傷んでいる。手入れをする余裕がなかったのか」 「気づかれたか。ここ数日、忙しい」  目を閉じている間に準備がされて、はさみが髪を切る音がする。 「加減を知らない売人が廟街に流れ込んできた。子どもや女性に最初は安値で売り捌いて、依存させてからは金を取らずに体を売らせるか、弱ったところを攫ってどこかに売る連中がな。調べてみたら九龍城砦から来たようだ」 「すまない。追い出した犬どもが廟街に行くとは」 「仕方がない。人は食べて生きていくために、どこかに流れ着く。自然なことだ。薬物の売人に見せかけて廟街で悪事を起こし、何かしらの争いの火種を持ち込もうと企んでいるやつらがいないか、調べるのが多少手間だが」 「そうは言ってくれるが、手を焼かせたな。悪かった」  いったい、どこが悪いのか。なぜ謝るのか理解できなかったが、阿風はそういうやつだ。責任を背負い過ぎるきらいがある。 「構わない。最近は荒事が減って、事務仕事や名目だけの会合ばかりで腕が鈍っていた。勘を取り戻すにはいい機会だ」 「そうか。だが、あまり無理はするなよ。お前は体を張りすぎる」 「俺によく言えたものだ」 「どうしてだ。俺も、阿秋も心配している。廟街の荒事を、未だにほとんど自分で片付けているだろ。前よりはしていないと言うが、たいして変わっていない」 「お前も阿秋も、隠居するどころか、周りに仕事を任せる気配すらないくせに? 俺に仕事を控えさせたいなら、まずお前たちがして手本を見せるべきだ」  軽く息を吐いて笑う。背後ではくすくすと阿風も笑う声がした。 「聞くのが遅くなったが、信一と十二はどうした?」 「出かけている。薬物を売る決まりを新しく作ったが、守れない連中は粗方追い出せて、犬どもの数が減ってきた。普段の仕事に戻る手下もいたから、二人のお守りをしてもらっている。二人とも、久しぶりに外に出て遊べると嬉しそうだった」 「やはり子どもはどこかに籠りきりより、外で遊ぶ方がいいな」  ずっと家の中にいろと強制されれば、最初のうちは我慢できても、いつかは窮屈になる。よかったと口元が持ち上がる。 「いや、遊びじゃない。阿虎が来ると知って、この前のお土産のお礼を買いたいと、十二が言ったんだ」  口が強張った。出かけた溜め息を飲み込む。 「子どもにそんな気遣いをさせるな。居心地が悪い」 「俺がさせたわけじゃない。十二がしたいと言い出して、信一もいつも土産をもらうからお返しがしたいと。ついでに、自分たちのおやつと遊ぶものも買えるよう小遣いは多く渡してある」  はさみが置かれる音がする。顎に髭を剃るためのクリームが塗られる。もう口を動かせない。言い返すのを諦めて、不服を込めて息を吐き出し、追いやった。髭を剃る手に身を任せていると、ここ数日の疲れや緊張で張っていた神経が解けてきたのか眠気が押し寄せる。ここにいると、つい気が緩んでしまう。古くからの友人がいるおかげで、いつもは必要な警戒心がいらなくなるからだろう。ときどきここで眠ってしまうと、俺の扱いに阿風も手慣れていて、しばらく放っておいて眠らせてくれる。今日は眠るつもりはなかったが、たまの贅沢な時間だ。気心知れた友人がいる状況に身を委ねて、俺は眠気に沈んでいた。 「ただいま、龍哥」  信一と十二の声が聞こえた。意識が浮かび上がり、どこにいるのか、何をしていたかを思い出す。周りの音は水中にいるようにぼやけている。まだ眠気が全身を覆っているようだ。 「そこにいるのって、虎哥?」 「ああ。十二、虎哥は眠っている。起こさないようにな」  近づいてくる足音に、目を開く。気配は間近にある。体を椅子の背から起こし、声がした方へ顔を向けた。 「ごめんなさい、虎哥、起こした?」  さっと体を引く十二が視界の端に見えた。俺の右側にいて、追いきれなかった。義眼では見えないのが惜しい。頭を軽く振って、残っていた眠気を散らした。 「いや。少し前に起きていた」  顔を大きく右に向けてやっと十二を視界に収める。俺がそんなに気になって見に来たのか。猫が少しずつ相手を覚えたことで警戒心が薄れてきた様子に似ている。子どもに懐かれるのは慣れておらず扱い方が分からないが、悪い気はしなかった。十二は俯いていて、後ろにいる阿風と信一をちらちらと見ている。本当に俺が怒っていないか聞きたそうだ。怒っていないと表すために何か言いたかったが、ちょうどいい言葉が出てこない。今さらこんにちはと挨拶をしても、他人行儀で奇妙に思えた。だが、久しぶりだなと言うほど、以前会ってから間が空いてもいない。 「俺のことは気にしなくていい。前に会ったときより顔色がいい。元気か」 「はい。今日は調子がよくて。この前みたいに、具合は悪くないです」 「それはよかった。今は辛いだろうが、離脱症状もいつかは落ち着く。それまでの辛抱だ」  十二は頷き、手を上げて持っているものを差し出してくる。質素な紙袋だ。 「これ、さっき買ってきたお茶です。龍哥から、虎哥はこのお茶が好きだって教えてもらって」 「ありがとう。子どもは大人のことなど気にしなくてもいいのだがな」  袋を受け取り、立ち上がる。阿風が近づいてきてサングラスを渡してくる。それをかけて、椅子の近くに置いてあった袋を十二に渡す。 「この前持ってきたのとは違うお菓子だ。信一と分けて食べてくれ」 「ありがとうございます。……あの、虎哥、さっき目が」 「怖かったか? すまない」 「違う。えっと、違います」  十二は敬語で言い直す。そのまま後退りして頭を何度も横に振った。サングラスをかけるまで十二に驚いた様子や何かを気にする素振りがなかったせいで、サングラスをかけていない顔を見せてしまっていたと、ようやく気がつく。 「俺の目が気になるか」  聞くと、少し迷ったように視線を揺らす。後ろめたそうに俺をちらりと見て、小さく頷いた。俺は十二に一歩近づいた。十二ははっと顔を上げて背中を丸める。怒られないかと怯えている。一瞬だけ俺は目を閉じ、その感情を追うのをやめる。 「あとでこの目について教えてやる。俺に聞くのが怖いなら、龍哥に聞けばいい」  頭を軽く撫でてやる。触れるとぴくと頭が跳ねた。無意識に、殴られると構えたようだ。だが、撫でられただけと分かると、安心したようにふうと息を吐いて細い肩が下がる。 「怖くない。だから、あとで教えてください」 「初めてだな。こうやって教えてくれと面と向かって言われるのは。率直でいい」  目や嗄れた声について直接聞くと不快にさせると思ってか、気になった者は俺の周りにいる手下や知り合いに過去に何があったのかと尋ねる者も少なくない。気遣って遠回しに探っているのだろうが、直接聞かれずに探られる側の居心地が悪くなるとまではどうやら気が回らないらしい、と思って俺は好きになれなかった。なぜなら、真正面から聞けば教えてやるからだ。別にこの目や声を隠しているわけでも、恥じているわけでもない。周囲と比べるとあまりない特徴のせいで、余計な興味を持たれるのが面倒なくらいだ。 「そうだ、すっかり忘れていた。煙草を切らしていたんだった。十二、悪いが買ってきてくれないか。一人だと危ないから虎哥も一緒に。行く間、話すのにもちょうどいいだろう」  わざとらしくシャツやスラックスのポケットを探り、煙草がない、困ったなと芝居がかった笑みを浮かべる阿風に、そういうことかと頷き返す。十二はお使いを任されたのが嬉しいのか、俺が渡した土産を急いで信一に預けて、いつでも行けると阿風に近寄る。 「分かった、龍哥。俺、すぐお使い行ってくる。煙草の銘柄だってちゃんと覚えたから大丈夫」 「頼りになるな。それなら、俺は虎哥からもらった土産をいただく準備をする。二人が帰ってきたらみんなで食べよう」  十二は阿風から金を受け取ると、俺に向かって他人行儀にお願いしますと頭を下げて店の扉へと駆けていく。 「気をつけて、十二、虎哥」 「うん、行ってきます!」 「分かっている、龍哥。心配するな」  何があるのか楽しみだと言わない代わりなのか、阿風はにやりと笑って送り出してくれた。手をひらりと上げて適当に応じ、俺は通路の少し先にいる十二を追った。 「どこの店で煙草を買う?」 「近所の商店。龍哥はいつもそこで煙草を買うんだ」 「迷わないか」 「うん。ここに来て二年くらいだけど、一人であちこち行ってたから。信一に会ってからは、いろいろ案内してもらってこのあたりの建物がどうなってるか、ほとんど覚えた」  俺の方を何度も振り向きながら答える。二人きりの状況に不安を覚えているのをあえて隠そうとしているのか、打ち解けてくれているのか分からないが、口調が砕けてきている。年相応の話し方で、この子どもの本来の性格が垣間見えたようで、好ましい。俺は歩幅を大きくして十二に追いつき、俺の視界に入るように彼が左側にいるように並ぶ。自分の視界には、大切なものがいるように過ごす癖のせいだ。まだ十二を引き取る気はないが、お守りとしてついてきた子どもを視界から外すほど冷淡なつもりもない。しかし、十二は俺の背後を通って逆側、右目の方へと来た。 「どうした」 「虎哥は右目の方が見にくいかと思って、俺がこっち側にいた方がいいと思った。九龍城砦の通路は狭くて、暗くて、危ないんだ。足元を見ないで走ると、よく躓いて、転ぶ。役に立てるか分からないけど、こっちに何かあったらすぐ言うから」  こんな子どもに気を遣われるとは。俺も年を取って頼りなく見えたかと笑ってしまいかけたが、この子は皮肉や嫌味で行動したわけではない。卑屈に受け取るのはやめて、素直に受け取るべきだ。 「ありがとう。心強い。よく気が回るな」 「俺、信一を真似してるだけなんだ。信一はいつも優しくて、周りの人をよく見てるから」 「真似だろうが、なかなかできることではない。……そろそろ俺の目について知りたいか?」  顔を十二へ向ける。真っ直ぐに見上げてくる瞳はやはり澄んでいて、無邪気だ。子どもは頷いた。 「あ、でも、そこの店で煙草を買わないと」 「買ったあとで話そう」  十二は商店に向かい、慣れた様子で煙草を買った。  その後ろからジュース一本を買い、十二の肩を叩いて食べたいものを選べと商品を指さす。 「でも、帰ったら龍哥たちとお土産を食べるのに」 「少しくらいならいい。龍哥と信一には内緒だが」  迷いつつも、十二はジュースと小さなチョコレートを二つ手に取った。金を払って通路の行き止まりに向かう。階段があるが、上へ向かう段は途中で壁になって塞がれている。途切れた階段の一段目に、俺たちは並んで座った。 「あの、虎哥、これ」  俺が買ったチョコレートのうち一つを、十二は恭しげに差し出してくる。 「二つとも自分で食べていい」 「虎哥と食べたくて、二つ選んだんだ。虎哥は甘いものは嫌い?」  小首を傾げて尋ねてくる十二は、不安そうに視線を落とす。子どもに気を遣わせるのは申し訳ないが、せっかくの気遣いを受け取らないのも無礼だ。甘いものはそれほど好きではないが、たまにはいいと受け取る。十二は照れくさそうに笑ってジュースを開けて飲み始める。そして、ちらちらと俺の顔を窺い見る。その顔は好奇心を隠しきれていない。早く話してほしそうだ。 「もうずいぶん昔になるが、俺は龍哥と手を組んで、九龍城砦を巡って雷震東という相手と長い間戦っていた。その雷震東の手下の中でも、一番腕が立つと噂されていたやつと戦ったんだ。そのときにやられて、右目と喉を傷つけた。右目を失って、声も今のようになってしまった」  サングラスを外し、顎から首にかけて残っている傷を指で示す。十二は目を丸くしている。 「右目と喉の傷はもう痛くないの」 「傷は治っている。痛みはない。体調が悪いか、雨の日はときどき痛むが。右目は義眼だ。右目があった場所が痛むと、目が戻った気がして不思議な気分になる」 「ぎがん……」 「失った目の代わりに入れるものだ。作り物の目だ」 「虎哥のは、白いぎがん?」 「そうだ。黒目がある義眼も作れるが、俺はこれを選んだ」  説明を聞いた十二は、首を傾げた。どうして目の代わりなのにわざわざ白目の義眼を入れているんだろう、と言いたそうに口を開きかけた。これ以上は、何を聞いても失礼になると思ったのか、慌てたようにジュースを飲んで口を噤む。 「俺の右目と声を、黒社会で知らないやつはほとんどいない。だから、いくら隠そうが、本物そっくりの義眼を入れてもほとんど意味がない。だから、あえて誰から見ても、目が見えないと分かる義眼を使っている」  代わりに俺が話すと、十二は瓶から口を離して、おずおずと聞いてくる。 「どうして?」 「そうすると、俺が虎哥だと分かりやすい。それに、俺や龍哥は怖がられた方が面倒が減るんだが、この義眼はよく怖がられて助かる」 「怖がられると、危ないこととか、大変なことが減る?」 「そうとも言える」  面倒が減ると大雑把に言ったせいか、十二は分からないと言いたげに、眉間を少し寄せて首を傾げた。危ない、大変なことは、この子どもにとってはどのようなものなのだろうか。おそらく過酷な環境にいたために、本や映画で知る物語のように遠い出来事ではないだろうが、あまり生々しい現実を知っていなければいい、と思った。 「俺、龍哥が危ない目に遭ったり、大変な、えっと、喧嘩とか、揉め事に巻き込まれたりしてるのは見たことがないけど、若いときにはいろいろ大変だったって話してくれる。虎哥もそういうことがあったの? 今もある?」 「昔はな。龍哥と俺が若かった頃は、今より危ないことがたくさんあった。特に喧嘩は日常茶飯事で、揉め事を起こしたり、起こされたり、仲裁したりと大変だった。今は相当減ったが、危ないことはそれなりにある」 「何もできない俺が言うのは失礼かもしれないけど、……どうか気をつけて。もう怪我をしないで」 「大丈夫だ。頼りになる手下が大勢いる。俺もまだ腕が衰えていないつもりだ。この義眼も、ただ怖いだけの役立たずではない。案外、いろいろなところで役に立ってくれる」  見えないのに、義眼が何の役に立つのだろうか。そう聞きたげに、十二はジュースを飲みながら俺の右目をまじまじと見つめている。これほど義眼を見つめられたのは初めてかもしれない。  いくら見つめられても、どんな役に立つのかは、たとえ聞かれても詳しく答えるつもりはなかった。この義眼をつけていると、相手が死角を狙って襲ってくることが多いためだ。あえて弱点や死角を晒しておくと、両目が見える振りをしているよりもどこから襲われるかが把握しやすく、対策も容易い。しかし、こんな物騒な話は子どもに聞かせられない。子どもは知らなくていいことだ。  ついでに、右目に精巧な義眼を入れていると、俺の片目が見えないという事情をどこかで聞いてきた誰かが、本当に片目が見えないのだろうかと妙に気遣ってくる。ありがたがるべきなのかもしれないが、その善意がどうにも好きになれない。大概の善意に悪意や傷つけようといった意図はないのだから、大人しく受け入れてしまえばいいくせに、意地が悪く未だにうまくできない。生まれついての気まぐれな性格が、年を取ってもなお憚っている。そんな自分の捻くれた性格を子どもに話せば、さらに気を遣わせてしまう。  俺を見つめたまま十二はぱっと目を大きく開いて、ジュースの瓶から口を離す。 「そんなこと言わないで、虎哥のぎがん(﹅﹅﹅)はかっこいい。怖くない。えっと、でも、虎哥が怖くないからって、俺は変なことしない。あの、じっと見て、ごめんなさい……もうしない」  言ってから、無礼だと思ったのか、声は段々と弱々しくなっていった。 「この目にそんなことを言われたのは初めてだ。そうか、気に入ってもらえたか」 「うん。見たことなくて、すごくかっこいい。俺、虎哥も、龍哥も怖くない。二人とも優しくて、かっこいいのに、どうして怖がられないといけないの?」  目元を険しくさせて言った十二に、頬が緩んでいく。 「大人は面倒が多い。まだ子どもは知らなくていい」  もらったチョコレートの包み紙を取って口に入れた。甘い。この世の中も、これくらい甘ければ楽なのだが。 「さっきの言葉はありがたく受け取っておこう。俺の右目にも、いいことがあるものだな」  こうして出会った子どもの優しい気遣いや、素直に慕ってくれていることを教えてくれる。かつての怪我も、残っている傷や義眼も俺の未熟さが招いたものとして仕方がなく受け入れていたが、ようやく悪くないと思えそうだ。 「うん、じっと見ていたら失礼だって分かってたのに、見るのがとめられなくて」  夢中で話す十二は買ってやったチョコレートをすっかり忘れているのか、手に置いたままだ。小さな手のひらからチョコレートを摘み取って包み紙を外し、十二の口元に差し出した。十二は驚きながらも口を開けて口にした。 「そろそろ龍哥たちが心配する。ジュースを飲んだら帰ろう」  恥ずかしそうに顔を赤くした十二は、口をもごもごさせながら何度も頷いた。そして、ジュースを急いで飲み干した。 「おいしかったです。ごちそうさまでした」 「おいしかったのならよかった。あまり俺に気を遣って丁寧にするな。黒社会の付き合いではない。礼儀も不要だ」 「でも、龍哥はできるだけ周りの人には優しく、丁寧に、って。特に、尊敬する人や優しくしてくれた人には」 「どうしてだ? もし好きなように振舞ったとしても、俺は気にしない。したいことを我慢して、好きにできないのは息が詰まらないか」 「龍哥に教えてもらって、すごく好きな考え方なんだけど、尊敬できる人や優しい人にはなかなか会えないから、敬意を払って大切にしなさいって。俺、ここに来ていろんな人に助けられた。だから、ここで会った人とは、これからも一緒にいたくて。敬意が何か、まだよく分かってないけど」  照れくさそうに十二は笑い、立ち上がる。俺も立ち上がって行こうかと、背中に手をあてた。 「いい考えだ。大切にしたいものは、簡単に見つけられない。大切なものがあるのはいいことだ」  十二は頷き、また俺の右側に立って来た道を戻っていく。ここで辛い目に遭っているにもかかわらず、腐らずに前を向いて歩いている。  いい子で、優しい子だ。引き取ってはどうかと言った阿風に、さすがに荷が重いとぼやきたくなった。はたして、この子どもに俺が関わっていいのか。重く濁った不安が過ぎる。もう会いに来ない方がいいだろうか。自分が気に入れば気に入るほど、接点が増える。より関わることで曇りのない瞳に傷をつけてしまわないか、影を落としてしまわないか気がかりだ。  幼い頃、道端で見つけた綺麗なガラスの欠片を思い出す。ごつごつした小石ばかりが転がる道で、ガラスは小さな破片であっても透明で陽射しを受けて輝いていた。そのガラスを拾って大切にしていたが、ある日落として割ってしまった。なぜ割ったのか、覚えていない。罅(ひび)が入り、砕けて散らばったガラスと、その断面だけが、はっきりと記憶に残っている。拾わなければよかった。そうすれば、大切なものを自分の手で壊さずに済んだと思った。砕けたガラスの中で一番大きな欠片を拾ったとき、綺麗だと思わなかった自分が信じられなかった。 「虎哥?」  考え事で少し歩みが遅くなった。後ろに下がった俺に、十二が振り返った。どうしたのかと聞くのは失礼だと思ったのか、首を傾げて足をとめかけている。 「大丈夫だ」  一歩分の距離を詰め、十二の隣に並ぶ。見下ろすと、十二は頷いて再び前を向いて歩き出す。  気まぐれを起こして引き取ってしまおうか。この子どもの行く末を思えば、黒社会で生きる俺とは関わらずに、できるだけ関係のない誰かに引き取ってもらう手引きをするのが最善なのだろうが。分かっていようが欲しくなってしまう。  よくない癖だ。虎のように傲慢に、好き勝手に振舞うのは嫌いではないが、幼い子どもを俺の生き方に、ひいては九龍城砦を巡る因果に巻き込むのは躊躇われる。俺は煙草を取り出して、火をつけた。流れる煙を置いていくように歩いた。  この子どもが気に入っている、引き取っても構わないくらいに。もしも引き取るという気まぐれが起こるとすれば、虎が獲物を捕まえるときのように、呆気なく、目で追いつけないうちに起きてしまうのだろう。  十二の後ろ姿を見る。無防備で、いつでも連れていってしまえそうだと、いつの間にか考えていた。  まったく、恐ろしい。俺は人間ではなく、本当に虎だったのか? 自身の考えに呆れて、深く煙草を吸った。煙をできるだけ長く吐き出す。  諦めろ。俺には、不相応の子どもだ。  傷つける前に、後悔する前に、忘れてしまえ。  この子どもに関わったことも、気に入ったと思ったことも、すべて。  ただ、澄んだ瞳が綺麗だったことは忘れ難い。だが、煙を吐ききってしまえば、執着になりかけた好奇心は大人しく靡いていった。  これでいい。この子どもに会えただけで十分だ。俺は子どもを育てるにも、引き取るにも、欠けているものが多い。自らの手でこの子どもの行く末を汚してしまうことばかり想像し、恐れてしまうくらいには。子どもを引き取って接する以上、傷つけ、苦しませるときが必ずある。にもかかわらず、そうした苦悩を無視して、俺にとって都合のいい気に入ったところだけかわいがりたいなど、親という立場になる覚悟すらないのだ。  十二には、いつかいい道へ進んでほしい。俺のような者とは出会わない、黒社会にはできるだけ縁がない道へ。  まだ決まってもいないことを恐れるあまり、この子どもに関わり、触れることすら諦めている俺は曖昧に願うばかりだった。






公開:2026年10月4日

更新:2026年10月4日

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