サンプル
虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ
『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。)
「境の歳に飼い飼われる仮初」(書下ろし)
五
周りにあるいくつかのテーブルには、豪勢な料理が並んでいる。ざわめく手下たちの声の間を通り抜けて、十二が部屋の前に立ち。動きやすそうなズボンに、小綺麗なシャツと堅すぎない上着を合わせたシンプルな格好をしている。阿風がセットした流行の髪型と、真新しいスニーカーとよくまとまって似合っている。周りからの誕生日を祝う声に、十二は照れくさそうに頬を赤くしながらも、胸を張って嬉しそうな笑みを見せる。
耳のピアスがきらびやかな光を反射し、サングラス越しに突き刺さりそうだ。
「今日は、こんなに大勢が俺の誕生日に来てくれてありがとう! みんなに祝ってもらえて、嬉しい。これから虎哥の手下として、俺、頑張るから」
時が過ぎるのは早いものだと溜め息をつくと、隣に座っていた阿風に肘で小突かれた。祝いの場で後ろ向きな態度をするなと、俺を諌めている。分かっていると肩を揺らし、煙草に火をつけた。あの子を引き取ったときから、考えていた可能性の一つに至った。それだけだ。覚悟して、諦めていたことじゃないか。
目を伏せて煙草を吸ったが、気分は一向に軽くならない。隣の席に誰かが座る。
「虎哥、どうだった。俺、やっと虎哥の手下になれたんだ」
「いい顔をしていた。さすが俺の十二少だ。だが、まだ見習いみたいなものだ。正式に加わったわけじゃない」
わざと〝少〟とつけて言ってみたが、十二は調子に乗った様子もなく、真面目な顔で頷く。
「分かってる。向いていなかったら、やめる」
俺は黙って頷き返す。黒社会は揉め事、争い、流血沙汰、そして、死がつきまとう世界だ。
向いていない者はさっさと足を洗わせて、まだまっとうな社会で生きられるうちに平穏な場所へと帰らせる。争い、血を流し、死ぬ覚悟もなく、運悪く黒社会に迷い込んだ若者の命を無駄にさせるほど、俺は趣味が悪くないつもりだ。
阿風がグラスを掲げ、真面目な話はやめろと首を振った。
「黒社会で生きるかどうかはともかく、十二、一六歳の誕生日おめでとう。三年前からは想像もできないくらい、たくましくなったな」
俺もグラスを持ち上げる。阿秋と信一もグラスを上げて、軽くぶつけ合う。酒を飲む前に、阿秋が口を開く。
「十二、改めておめでとう。もしも黒社会に嫌気が差したら、俺に言え。綺麗な仕事を紹介してやる」
「おい、秋哥、やめてくれ。俺から、この子を取るつもりか」
「そんなつもりはない。だが、お前は不器用だからな。黒社会以外での仕事をすぐに用意できるとは、想像できなかった」
「若造のときとは違う。堅気の商売にも金を出して、廟街には綺麗な店がいくらでもある。秋哥に頼らなくても、どうにかできる」
俺の返事に阿秋は本当かとぼやき、大袈裟に頭を振った。
「待ってくれって、虎哥、秋哥。さっそく俺が抜ける話なんて、縁起でもない。今日くらいは祝ってくれよ」
「そうだ。先がどうなるか分からないけど、十二ならうまくやるって。そうじゃないと、俺も寂しい」
信一はそう言い、隣に座っている十二の肩に腕を回す。うん、俺たちならうまくやれるはずだと、二人は楽しげに話す。別にうまくやらなくとも、生きていれば十分なのだが。溜め息をついてしまう前に酒を呷った。
料理と酒を楽しみながら、テーブルにやってくる者たちに挨拶や世間話をしている間に、料理は食べ終わってケーキが出てきた。去年よりも大きなホールケーキは豪勢で、テーブルに運ばれてきたケーキに十二は目を輝かせる。
「今年の願い事は?」
信一がにやりと笑って、尋ねる。すると、十二はにやりと笑い返して手を組み、目を閉じた。
「決まってる」
数秒で目を開き、勢いよく立ち上がった。そして、周囲に集まっている人々へ顔を向ける。
「今日は大勢の兄貴たちが来てくれて、嬉しかった。龍哥も、秋哥も。俺、兄貴たちみたいになれるよう頑張るからな!」
すると、あちこちのテーブルからは、頑張れよ、お前ならうまくやれる、無理するなよと応援の言葉が飛んでくる。その応えにはにかみながら、手を振ったり、頷き返したりして、十二は席に戻った。
「それじゃあ、食べよう。おいしそうだ」
「お前が好きそうなものを頼んだ」
「ありがとう、虎哥」
切り分けられたケーキを口にする。甘かった。あまり食べない甘みに舌が驚いたのか、おいしいよりも先に、複雑な味だと感じた。ケーキを食べ終わってからは、阿風と阿秋が連れてきた手下たちと外に出ていき、解散していった。阿秋は道路で待たせていた車へ手下たちを先に乗り込ませて、俺に近寄ってくる。
「阿虎、お前のことだ、心配はしていないが……もしも十二のことで何かあったら、遠慮なく言え。どれだけ子どもに恨まれようが、喪うよりはましだ」
明らかに気を遣わせている。申し訳なかった。付き合いの長い阿秋と阿龍には、俺の不安などいくら隠そうが容易く見つけられてしまうのだろう。
それこそ、阿秋が亡くなった妻子を匂わせてまで、心配してくれるほど。
「すまないな、阿秋。覚悟はしているつもりだが、俺はまだまだ甘かった」
「甘くて何が悪い。俺たちが若者に甘くしてやれるのも、さして長くはない。甘くしてやれるうちに、甘やかせ」
最近の阿秋は健康が一番だ、体を鍛えるのに酒は悪影響だとか言ってあまり飲まなくなったのをつまらないと思っていたが、大人としていい助言をくれるようになったと捉え直す。青二才のときと変わらず酒に酔っていては、こうは言えない。
「さすが、秋哥だの言うことだ。助かる、気が軽くなった」
「義兄弟は助け合って当然だ。それでは、先に失礼する」
俺に背を向けた阿秋は手を軽く振った。車に乗り込み、去っていく。少し離れたところで十二と信一が話す声が聞こえる。誕生日で楽しい気分がまだ落ち着いていないのだろう。帰りを急ぐ必要はない。手下たちにもう少し待っていろと頷き、俺は帰りの足である車にもたれかかり、煙草に火をつけた。
「信一のせいで待たせて悪いな」
「龍哥、お前だって待ってやっているじゃないか」
阿風が隣に来た。俺と同じように車に背中を預けて、煙草を取り出す。
ライターで火をつけてやると、一息吸って口元を持ち上げた。信一は困った子だと言いかけている。嬉しそうにも、呆れているようにも見える、親の顔をしていた。
「だが、これ以上、虎哥に待ってもらうわけにはいかない。まったく、招待された立場も忘れて、廟街の虎哥を帰らせないなんて、信一はよくやる」
「構わない。信一が小さい頃からの付き合いだ。上下関係など気にするな。今さら気にされると、むしろ落ち着かない」
「もう大人だ。上辺くらい気遣いを見せてほしいものだ」
「大人と言うが、まだ子どもだ。だが、いずれ大人になる。俺たちがいなくとも」
煙を吐いた。自分で言った言葉のくせに、言ってみると存外に冷たくて侘しい。雨が降る直前に吹く風のようで心地いいものではない。あまり自分は言いたくなかったようだ。
「そろそろあの子たちも親から離れるときか。……虎哥、もし十二に何かあれば、すべて俺のせいにしろ」
唐突な言葉は鋭い。思わず阿風を見つめる。
「何を?」
「将来、何があっても、お前のせいじゃない。十二をお前に会わせた俺のせいだ」
煙混じりの溜め息をつく。詳しく話せと言いたいが、はっきり言わない阿風にも事情があるはずだ。野暮な問いは煙に溶かして吐き出す。
「まるで、俺に十二が押しつけられたような言い方だな」
声を潜めて言った。傷ついた喉から出た言葉は、毀れた刃くらい鈍く、そして、刺々しかった。
「違うのか?」
阿風の返答は淡々としている。今吸っている煙草の煙によく似て、手元からするりと去っていく。決して、冷たくはない。優しさとやらで惑わそうとはしていないからだ。すっと細められた彼の目は一切笑っていない。きっと、俺もサングラスの下で同じ目をしている。
「龍哥、俺にとっては違う。あの子を引き取ると決めたのは、俺だ。自分のせいなどと思うのはお前の勝手だが、俺の前ではもう二度と言うな」
「分かった、もう言わない。すまない、言いたかったことは、これから何があったとしても、一人で背負い込んでほしくない。そういうことだ」
「回りくどいやつめ。俺がへたに、お前のせいだとでも言っていたら、十二を攫っていってしまったくせに」
「攫うだなんてひどい言いようだな。少し十二を気にかけてやって、廟街に嫌気が差したらこっちに来るかと声をかけるくらいだ」
ようやく緊張が解けてお互いに笑い合う。短くなった煙草に、そろそろだなと目を合わせる。阿風は背中を車から離し、十二と信一へ顔を上げた。
「信一、どれだけ虎哥を待たせるつもりだ。帰るのをまだ引き留めたいのか?」
「あ、ごめん、すっかり話し込んでた。すみません、虎哥」
こちらに顔を上げた信一は、十二の背中を押して、さあ帰るぞと促す。十二と入れ替わるように阿風が信一の方へ行き、彼らが乗ってきた車に向かった。
「信一との話は楽しめたか」
俺のもとに来た十二に聞いた。
「うん。待たせてごめん。楽しくて、時間が経つのを忘れてた」
「誕生日だ。仕方がない。だが、ずっと外にいては体を冷やす。気をつけろ」
十二と車に乗り込む。他の手下たちは別の車に乗り込んでいく。初仕事として俺の警護をしたいと兄貴分に頼み込んで、誕生日の贈り物にもらったと、ここに来るまでの車内で話してくれた。わざわざ誕生日に警護の仕事を引き受けて俺の隣に座りたいなど、やはり変わった子だ。
繁華街を走る車から外の景色を一瞥するも、たいして代わり映えしない。隣にいる十二に顔を向ける。外のネオンや街頭の光を反射し、耳のピアスがきらめく。去年の誕生日の贈り物として、俺が渡したものだ。十字の飾りが揺れている。十二が扱う刀に似ていると思い選んだことを思い出す。
「虎哥、疲れた? 俺が騒がしかったせい?」
「疲れてはいない。ただ、節目が感慨深い。十二、お前が俺のところに来てから、もう三年か」
大人はよくそう言うけれど、どうしてだ? と言いたげに、十二はシートに背中を預けて、顔を斜めにして俺を見上げてくる。
「懐かしいような、嬉しいような、妙な気持ちだ。こんなに早く三年が過ぎるとは、思いもしていなかった」
「俺がまだ子どもっぽいから、心配?」
「そうじゃない。お前は強くて、気も利く。どこでもうまくやっていける」
確かに心配もしているが、その根本には複雑な情と因果で絡み合って、一筋縄ではいけない感情がある。俺が十二を黒社会に入るきっかけを作ったことで、いつか傷つけ、命を脅かすのではないか。
かつて、この子を引き取ると決めたことを後悔するのではないか。他ならぬ俺自身が、この子を傷つけているのではないか。そうした迷いが胸の内で渦巻いている。あとには決して戻れないが、信じて進むしかない道を進み続けてもいいのかと、この道は正しいのかと、ときに不安に思う感覚が未だに拭えない。
何が正しいのか、何を正しいとするのか。
俺ではなく、十二が決めることだと分かっていても、つい考えてしまう。
片手を上げて、十二の髪を撫でる。薄闇で十二は心地よさそうに目を細めた。
「そうだ、誕生日に欲しいものが決まったんだ」
「何が欲しい」
「帰ったら話す」
車が揺れる。外から差し込む光が建物で遮られる。
耳元にかすかな吐息が触れた。
十二が顔を寄せている。
「二人だけで話してもいい?」
囁き声は張り詰めていた。回り始めたレコードのかすかな雑音を思わせる声だ。何かが始まる。そんな予感がした。
「ああ。分かった」
また車が揺れて、大通りに出る。再び光が車内に差し込んだとき、既に十二は元の場所に戻っていた。頬が赤くなっている。それだけが、さっきと違っていた。
家の前で車が停まる。素早く十二が車を降りて、ドアを開けた。子どもにこういうことをされるのは、未だに慣れない。車を降り、十二をその場に待たせる。俺たちの前後を走っていた車は通りに停まって、乗っていた手下たちは外で煙草を吸いながら世間話をしている。一人が俺に気がついて、何か用ですかと首を傾げた。
「虎哥、どうしました? 何か用ならすぐ車を出します」
「いや、もう外には出ない。さっきは十二に気を遣って、あまり飲んでいなかっただろう。これで好きに遊んでこい」
懐から取り出した札を何枚か渡し、さあ行けと手を振る。すると、手下は口元を緩め、ありがとうございますと口々に言ってまた車に乗り込んだ。背を向けて家に向かうと、車が発進して去っていく音が聞こえた。
「虎哥、車はもう乗らないから駐車場へ片付けてもらった」
「気が利くな」
「そう? 兄貴たちを見ていて、自然に覚えただけだ」
背中を叩くと、くすぐったそうに笑う。大きな背中だ。ここに来たばかりの頃は、骨が目立つ体つきで、大きくなるのか密かに心配していたのが信じられない。
家に入ると、人の気配がなく静かだ。いつもは手下か、通いの使用人がいる。十二と二人きりになるなど、いつ以来だろうか。
「疲れただろ。お茶を淹れてくる」
「仕事部屋にいる」
「ありがとう」
台所へ向かう十二の足音を背後に、仕事部屋に向かう。明かりをつけ、カーテンを閉じる。机の上には目を通しかけている帳簿やペンが、前に手をつけたときと変わらずに広げられている。机上の物には触れず、仕事用の机から離れた場所に置いてある椅子に座る。この椅子は、俺が廟街を束ねると決まったとき、秋哥が祝いの品として贈ってくれたものだ。清貧もいいが、上に立つ立場になる、少しは見栄を張って威厳を保てと言われたのが、まるで数日前のように思い出せる。一見すると派手ではないが洗練された無駄のないデザインで、技巧が凝らされた装飾を撫でるのが気に入っている。年季が入ったおかげか、手触りや座り心地は柔らかくなった。たまには使ってこの椅子の役割を思い出させてやろう、そんな気になった。
扉が開き、盆を持った十二が入ってくる。茶のいい香りが漂う。差し出された盆から、器を一つ取る。茶を啜ると、さっぱりとした香りが広がった。
「うまい。淹れるのが上達したな」
「虎哥と兄貴たちに、よくお茶を淹れているから」
十二も茶を飲み、俺から空いた器を受け取って盆ごと机の上に置いた。振り向き、寄ってくる。真剣な顔をしている。あたりを警戒し、何か獲物を狙っている。強かで美しいが、そう身構えては軽やかに逃げられなくなる、どこか危うく感じる身のこなしだ。
静かに十二はしゃがみ込んで、床に膝をついた。顔を上げて見つめてくる。俺の膝にはそっと十二の手がのせられた。
「あまり堅苦しくするな。お前は俺に従っている立場になったが、それ以前に俺たちは親子だ。軽々しく床に膝をつくな」
「そうだけど、今の俺は虎哥の手下だ。このまま話す」
かすかに息を吐き、頷き返す。決意は変わらないだろう。顔を見れば分かる。立たせるのは諦めた。
「何が欲しい」
十二の喉が上下する。
「虎哥、俺を抱いてほしい」
サングラスの下で細かく目元が動く。
舌打ちの代わりに唇を噛む。
耳か、頭が、何かを間違えて理解したか。それとも、これは夢か幻覚か。
自らを疑いつつも、目の前にいる十二が身構えているのは、逃げる気がなかったからか、と納得していた。おそらく夢ではない、現実であるとも。サングラスを外し、懐にしまう。部屋の対角線上にある棚を一瞥する。そこには、仲間や友人の形見が収められている。
罪悪感や後悔、居心地の悪さ、最善の答えを探すも見つけられない戸惑い、そうしたものが込み上げてくる。
「十二、ふざけているなら、もうそんなことを言うな。ふざけていないのなら」
「ふざけてなんかいない」
子どものときは、駄々を捏ねたり、叱られて拗ねたりしたときは、お菓子を与えて興味が向く先を変えていた。そうしていれば、機嫌は直った。今でもお菓子が通用しないかと考えたが、もうそんなもので都合よく気をそらせる年頃ではない。
「……なら、理由を」
見下ろしている目が大きく開かれた。嬉しそうでもあるが、まだ警戒を解ききってはいない。獲物を捉え続けている眼差しだ。俺が逃げるとでも思っているのか。
「俺が一四のときにされたこと、覚えてる?」
「ああ、覚えている。すぐ助けられなくてすまなかった。……あの日の夜、俺がしたことも」
「謝らないで。違うんだ」
十二は甘えるように頭を下げて、俺の膝に寄り添う。猫が足元に擦り寄ってくる無防備な様子に重なる。気がつけば、勝手に手が十二の髪を撫でていた。あの日の出来事を謝りたいのか、十二の機嫌を取りたいのかも分からない、不器用な手つきだ。
「あれで、悪いやつらの中には、ああいうことで辱めるやり方があるって知った。だから、いつか俺が襲われて酷い目に遭ったとしても、虎哥が初めての相手なら平気だと思った」
「くだらない。そんなことを考えるより、危ない状況に陥らない立ち回りを学べ」
「分かってる、でも、危ないことは常にある。覚悟はしてる。いつ死ぬかだって、誰にも分からないだろ」
落ち着いた声だ。人懐っこい丸い目が俺を見つめ、膝に頬を擦りつけてくる。
「決めるにはまだ早い。正式に俺の手下になって、改めて考えろ。俺なんかを相手に選ぶな。数年もすればもっと信頼できる、大切な相手と縁があるかもしれない」
すっと十二の目が細くなった。険しく、刀の切っ先に似ている。
「虎哥なんか? 俺は、虎哥がいいんだ」
「数年も待てないのか」
「待っても変わらない。絶対に」
にやりと無邪気に笑う十二に、溜め息をついた。確かに、体を許す相手が数年で揺らぐなら、そもそもこんなことを言い出さない。
「どうして今なんだ」
「一六になると、早いけど結婚する相手を決める人もいる。俺も、結婚相手じゃないけど、大切な人を考えたら虎哥だったんだ。それに、結婚とか考える年齢だから、もう俺も大人だ。初めての相手を考えてもいいだろ」
ふっと軽い笑いが混じった息を吐く。若者の理屈はよく理解できないが、この子なりに納得しているのならばそれでいい。誰かに強いられるか、周りの圧力や影響で動かされているのではなく、自分なりに考えて物事を選んでいる。いいことだ。
「考えさせてくれ」
「うん、待つから考えてくれ。でも、俺は」
そう言って、十二は膝を床から離し、わずかに身体を持ち上げる。上半身を起こして顔を近づけてくる。
「虎哥が好きだ」
目の前で、軽やかに唇が動く。鮮やかな唇の隙間に白く鋭い犬歯が見えた。狙いは明らかだ。
口づけのためにぐっと寄せられた口を手で遮り、そっと押し返してあしらう。唇を奪いたいのなら、静かに、容赦なく、そして、不意を狙うために気配を殺さなければならない。この子の武術の才と戦いのセンスは素晴らしいが、まだこういった駆け引きは甘い。しかし、手のひらに触れた唇は柔らかく、さらに触れたいと思いそうで恐ろしかった。頭を軽く振る。
「早急だな。ほんの少しも待てないのか。そんなふうに躾けた覚えはない」
「ごめんなさい、それでも、好きなんだ。嘘じゃない」
再び膝を床につけ、しおらしく項垂れた。目元に涙が張っているように見えた。謝る代わりなのか、俺は何も言わずに十二の髪を撫でる。
ふと、ちょうど一年前を思い出す。一五の誕生日に、一緒に眠りたいと言い出した十二は、あのときから既に俺とこうした関係を持ちたいと望んでいたのだろうか。胸が痛む。長い間、十二を悩ませてしまった。罪悪感を抱く一方で、なぜ俺を選ぶのかという疑問と、十二は俺をどう見ていたのかという不安が湧いてくる。なるべく親らしく振舞おうとしていたが、それはうまくできていなかったのか。十二にとって俺は性的に映っていたのか。
「嘘とは思っていない。ただ、俺はお前を、自分の子として育てたつもりだ。後継ぎや手下にするためではない。ましてや、情人や男娼の真似事をさせるためでも」
「俺も、虎哥……父さんに、こんなことを頼むのはおかしいって、分かってる」
十二が片脚に腕を回し、しがみついてくる。腿に顔を押しつけてくるせいで表情が窺えない。まったく、この子は廟街に来たばかりの頃に戻ってしまったのか。
「後悔しないか」
「しない。したくない」
「俺が好きとは言うが、どんな情だ。親として慕っている気持ちや敬意、憧れを好意だと誤解していないか。恩返しや忠誠を履き違えていないか、もう一度よく考えてみろ。あまり言いたくないが、若者特有の勘違いかもしれない」
しがみつかれている脚に、じわりと温かいものが滲み、広がっていく。しゃくり上げ、鼻を鳴らす小さな音が部屋に響く。涙がスラックスを濡らし、徐々に伝わってくる濡れた感覚に、ひどいことを言ったと謝りたくなった。愛おしく、抱きしめてやりたかった。だが、まともな親なら突き放すべきなのだ。
「今日まで考えていたけど、分からないんだ、虎哥。親としても、兄貴としても大好きだ。ずっと傍にいたくて、離れたくなくて、虎哥のために生きたい。それで十分なはずなのに、抱いてほしいって思う。……どういう気持ちなのか自分でも分からないのに、とにかく好きなんだ」
時間をかけて途切れ途切れに話す十二の肩や背中は震えている。これほど悩んでいたのを知らなかった、気がつけなかった自分に嫌気が差す。頭から肩、背中を何度も撫でることしかできない。慰めの言葉一つすら出ない自分に、舌打ちしたかった。
「分からないままでいい」
俺が望んでいた形ではないが、十二がこれほど俺を好きだと思っているのは、いいことだ。少なくとも、悪いとは思いたくない。幸せと言ってもいい。黒社会に引き取られ、俺のもとで育てられたせいで、まともな生き方を奪われたと憎んでいてもおかしくないのだ。
それほど、俺はこの子の選ぶ道に何かしらの影響を与えてしまっている。重苦しい罪悪感が押し寄せる。なぜあのとき、あの道を選んだ。もっと別の選択が最善だったのではないか。いくつもの後悔が頭を過ぎる。
それでも、この後悔を確かめたかった。今の自分には確かめることが、最もこの子から逃げていない、誠実な選択と感じられた。
「好きだと思うのは、お前が十四のとき、俺がしたことが原因か」
俺の脚から顔を上げないまま、十二はしゃくり上げてじっとしていた。
「言いにくいだろうが、正直に言ってくれ。好きだと思うのは、俺のせいにすればいい。お前が後ろめたく思う必要はない」
「嫌だ」
きっぱりと十二は言って、顔を上げた。その視線は鋭く、澄んでいる。
目元に浮かんだ涙は光を反射し、視線をそらせば喉元に飛びかかってきそうだ。眦は赤く、濡れた睫毛があどけなくも、どこか大人び始めていて、かすかに息がこぼれかける。
他の者には渡したくないと、胸が痛む。焦れて、焼けるような痛みだ。こんな顔を俺以外に見せるなと、叱りたくなった。
そうだ、この子が一四のとき、俺が手でしてやったあの日から、心の奥底ではそう思っていた。相手が俺であっても、気安く体を許すな、無防備なかわいらしい顔をするな、健気に縋ってくれるな。せめて俺以外には体を許さないでくれ、と。胸元に抱いた十二が怯えながらも俺に頼り、初めて精通した日は未だに記憶に残っている。自分の子に、抗いがたい魅力と、許されない欲望を覚えた日でもあったからだ。誰かに汚されるくらいなら、俺がこの手で汚してしまいたい、そう思ったのをはっきりと思い出せる。
「どうして嫌なんだ。俺のせいにすれば楽だ」
「一四のときのことは、虎哥のせいじゃない。俺のせいだ。後先考えずに、俺が売人に向かっていったのが原因だ。それに、あのときは、他にどうしようもなかった。虎哥にしてもらったとき、怖かったとか、嫌だったとか、そんなこと思わなかった。だから、俺にしたことが間違いだったなんて言わないで」
「優しくて、芯の強いお前のことだ。そう考えていると思った。だが、全部子どものせいにして、頼まれたからと抱くわけにはいかない。見方を変えれば、大人が一方的に子どもへ暴力を振るうのと同じだ。時間をかけていい、なぜそう思うようになったか教えてくれ」
気まぐれで、身勝手な虎なりにも矜持がある。悪人として堕ちきらず、獣ではなく人として生きるために、守らなければならない領分は弁えているつもりだ。十二が焦る気持ちは分かる。まだ若く、この場を逃せば、もう二度と機会はないとでも思い込んでいる。人の関係など、時が経てば変わるものだ。ずっと変わらずにいてほしいという願いは叶わなくとも、時間をかければいずれは変わっていく。決断を急ぐ必要はない。ここで十二を焦らせずに、話を聞くのが俺の役割だ。
「ほら、泣くな、せっかくの誕生日だ」
頬を手のひらで包み、眦から伝い落ちた涙を親指で拭う。
「素直に話してくれ。俺のせいにもしてくれないか」
十二は目を伏せた。迷い、躊躇っている。やはりいい子だ。俺の傍にいなければ、この子にはもっと別の道があっただろうに。そんな狡い罪悪感に、目を細める。今考えてもどうにもならない。結局、俺は罪悪感を抱いた振りをして、こうなるとは思わなかった、まっとうな道を歩んでいない俺が原因だと言い訳がしたいだけだ。
ひどいやつだと、喉が引き攣った。せめてもの償いに、十二を見つめ続ける。静けさが過ぎていく。煙草の紫煙がよく合いそうな静けさだった。
「一四のときのことは、よく覚えてる」
頼りなげに十二は話し出す。瞼を伏せたあと、たどたどしく俺を見上げる。
「次の日にいろいろ教わって、虎哥がしたことの意味が分かって、自分が何も知らなくて恥ずかしかったし、申し訳なかった。……あれから、自分でそういうことをするようになったけど、やっぱり売人たちにやられたのを思い出して怖くて」
十二は浅い呼吸を何度かついた。不安や恐怖が滲んでいる。無理をするなと、頬を撫でて首を振った。だが、顔を上げたまま真っ直ぐ俺を見据えて、唇を震わせながらも口を開く。
「怖いときは、虎哥にしてもらったことを思い出してた。こんなこと、だめだって分かってたのに。だって、虎哥は俺のボスで、父さんで……、こんなことをする俺はおかしいって分かってた。一四のときの出来事は、もう怖くないけど、それでも」
眉間が寄って、大きく開かれていた目からぽろぽろと涙が落ちた。俺の手にまで流れ落ちた涙は、温かい。
「今も、あの日、虎哥にしてもらったことを思い出す。そのたびに、また触ってほしい、もっと触って、違うこともしてほしいって思う……だから、初めての相手は虎哥がいい。一四のときみたいに、嫌な目に遭う前に」
俺はゆっくりと瞬きをする。
濡れた目元から頬にある涙の跡が綺麗だった。冗談や嘘はどこにもなく、ひたすらに求め、願い、望んでいる。
そして、大きな目はひたむき俺に向いている。出会ったときから、変わらない澄んだ眼をしている。俺のような年嵩が相手でいいのかと軽口を叩きそうになったが、口元は動かない。出会った頃とまったく変わらない眼から、逃げたくなかった。
薄く、静かに息を吸った。もう戻れない、罪と欲深いこの道を進むと決めた。
「分かった。初めての相手になってやる」
頬に添えた手で涙の跡を拭う。十二は何度か瞬き、顔を赤くしていく。
「ありがとう、虎哥」
そう言って、十二は頬を拭う俺の手を握った。真っ直ぐに俺を見つめ、目を細めてはにかんだ。恋人のようでもあるが、幼い子どもが甘えてくるようにも見え、俺は罪悪感から手を離したくなった。頭では抱くと決めたが、まだ心や情が追いついていない。納得はおろか、諦めもまだ完全にはできていない。
「これから、少しでも嫌だと思えば、言ってくれ。俺はそれ以上、何もしない」
「たぶん、そんなこと思わない気がするけど、嬉しい。ありがとう、父さん」
父さん、その言葉に息を飲んだ。
すぐに溜め息でごまかし、十二が握っている手で強引に髪をくしゃくしゃと掻き混ぜるように撫でた。
「そろそろ手下たちが帰ってくる。泣いたのが知られないうちに、風呂に入れ」
「もう少し、傍にいたい」
十二は俺の手を離し、甘えるように腿の上に頭をのせた。そのまま額や頬を擦りつけてくる。これほど甘えてくる手下も、子どものように無邪気な手下も、今まで誰一人いなかった。笑いを隠しきれない息をつき、俺は十二の髪を撫で、首から肩までをゆっくりと何度も撫でた。
腹を見せる猫のように、十二は顔をこちらに向けて無邪気に笑ってみせた。
その顔はあどけなくも、どこか色香がある気もして、喉が上下する。もしや渇きを覚えているのか、我が子に対して、と呆れてしまう。
自分がした選択も渇きもおぞましく、到底許されるものではない。そう理解していても、この子に惹かれているのは確かだ。親として断るべきだという理性に従えないほどに。罪悪感を抱きながらも、手下たちが帰ってくるのは遅くなってくれないか、と考えている自らに嫌気が差す。そして、そんな物分かりのいい嫌気では、ごまかしきれない欲も、確かにあった。
公開:2026年10月4日
更新:2026年10月4日