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虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ

『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。) 「仔の不安を虎は慰む」(書下ろし)    三  外に出たとき、土産が買えそうであれば何かしらを十二のために買って帰る。些細なことだが、新しい習慣になっている。土産といってもたいしたものではなく、近所の商店の飴やチョコレート、ジュースから、よく手下に朝食を買いに行かせる喫茶店や食堂で売っている蛋 撻(エッグタルト)や饅頭。ときどき遠くに行くか、黒社会の会合に出るときは出先でもらった高価なお菓子や舶来品の珍しいお菓子を渡す。  土産が習慣になってきた頃には、十二が一日で食べきれないお菓子が家に貯まっていき、今では俺の部屋の棚の一角にもお菓子をしまっている。その棚に入れたお菓子は、十二が離脱症状で苦しそうにしているとき渡す。そうすると、気が紛れるのか、より具合が悪くなったり、自身の体を傷つけたりするのを防げるのだ。最近では、薬物をまたしたいという欲求から気をそらせるためにも、お菓子を食べさせている。甘いものを食べさせ過ぎてはいないかと、俺も手下も心配しているが、薬物をまたやるよりはずっといい、虫歯には歯磨きをしっかりさせればいい、とお菓子をあげて甘やかしてしまっている。  手下たちもお菓子をあげるといつも喜び、おいしそうに食べる十二を気に入ったようで、俺が仕事でいないときは近場の喫茶店や商店に連れて行っていろいろなものを食べさせてくれている。おかげで、廟街に来たばかりの十二は慣れない土地で外に出るのを怖がっていたが、今ではどこかおいしい店に連れて行ってと手下たちに頼み、手下と行った店がおいしかったから俺とも行きたいと言えるようになった。十二を連れて外を歩いていると、近所の住民に人懐っこく挨拶をして、朗らかに話す十二が見られる。九龍城砦や廟街に来て日が浅い頃の十二は、やはり周りの大人たちの機嫌を窺い、自分の本来の性格を隠していたのだ。  屈託のない明るい表情や、人懐っこく誰とでも接する一面は押し隠されていただけだった。近頃になってようやく、本来十二が持っている気質が見られるようになって嬉しかった。  時間があるときは、十二を九龍城砦に連れていき阿風に顔を見せて信一と遊ばせているが、以前の骨が目立つ痩せこけた印象から打って変わって、しなやかな身体になり、血色もよくなった姿は阿風と信一を大層驚かせた。十二と信一が理髪店を出て外に遊びに行ったとき、阿風に最近の十二はこんな顔をするようになった、こんな一面を知っていたかと聞いてみたが、知らなかったという返事を聞いて、俺は妙に得意な気分になってしまった。  幸いにも、十二の離脱症状が起きる間隔は徐々に広がり、症状も着実に軽くなっている。薬物を確かに断ったと言える日もさして遠くはないだろうと、前向きに考えられる調子だ。ただ、もう一つ、問題が見つかった。  雨が降っている。自室の窓を打つ音は規則正しく、長く降りそうな予感を含んでいる。夜から降り出した雨は、明日も振り続けると天気予報は言っていた。雨脚はさほど強くなく、窓や屋根を打つ雨音は心地いい。  暗い部屋でベッドに横になっていると、ついうとうとと微睡みかけてしまうが、薄く目を開けておく。こんな日はあの子が来る。  雨音に紛れて、とんとんと扉を叩く音がする。扉を開く音がするのと、俺が体を起こすのはほとんど同時だった。暗闇に慣れた目は、部屋に入ってきた小さな人影を捉える。 「どうした? 眠れないか」 「うん」 「おいで」  十二が扉を閉めてベッドに近づいてくる。俺が両腕を広げると、おずおずと腕を持ち上げて抱きついてくる。小さな体を抱き上げてベッドに横になった。  抱えている十二が寄り添ってきて、胸元に額が寄せられた。触れた額は汗で濡れていて冷たい。薄い背中に手を回す。寝巻きのタンクトップが汗でぐっしょりと濡れて、背中にはりついている。まるで、悪夢を見て起きてきたばかりのようだ。 「雨の日は、やはり眠れないか」 「いつも、ごめんなさい」  十二は背中を丸めて俯いた。 「いや、謝らなくていい。もう一人で大概のことはできるようになっているが、これだけは難しそうだな」  なぜ雨の日は一人で眠れないのか。その理由を詳しく聞いたことはない。どうやら雨が怖いか、苦手らしいが、本人が話したがらないのなら、無理に話させるべきではない。そう考えている。だが、十二が話して楽になるのなら、そろそろ聞くべき頃合いなのかもしれない。雨の降る夜になると、いつも申し訳なさそうに俺の部屋に来る十二は、ここに来る理由を説明できないことで、一層肩身を狭そうにしている気がした。別に理由などなくても、好きに来て構わないのに。 「十二、どうして眠れないか話せるか? 話したくないなら、いいんだが」 「虎哥は眠くない?」 「大丈夫だ、眠くない。お前が話している途中で寝ない」 「でも、俺が起こしたから、話して迷惑かけたくない」 「むしろ、お前が心配で放っておけない。よければ話してほしい」 「俺、虎哥にこんな話、聞かせたくない」 「気にするな。怖いことや嫌なことは誰かに話すといい。楽になる」 「どうして楽になるの?」 「分からないが、たぶん、人は言葉にすることで、過去にあったことに向き合うんだろう。思い出さないと、話せないからな」  話してくれなくともいい。十二をそっと抱きかかえて背中をゆっくり撫でた。痛々しいほど浮き出ていた背骨や肋骨の感触は、指先でたどりにくくなっている。廟街に来てから十二はすくすくと成長し、骨ばって硬かった体の線はしなやかさを帯び始めている。だが、身体はともかく、精神の健康はどうだろうかと気がかりだ。俺が話を聞くよりも、九龍城砦に連れて行って阿風や信一に会わせて、話を聞いてもらった方がいいだろうか。 「嫌なことは大人に押しつけて、子どもは忘れてしまえばいい。俺に話して楽になれるなら、いくらでも聞きたい」 「本当に、いいの?」 「ああ。話せそうか?」 「……雨の日は、夢を見る」 「どんな夢だ」 「怖い。いつも同じ夢なのに」 「どういう内容なんだ?」 「いつも暗いところにいる。俺がいるのは外で、雨が降っていて、体が濡れていてすごく寒い。昔、薬物の売人がいるところに住んでたんだけど、そこに帰ろうとすると売人に殴られて追い出される」  落ち着いてはいるがどこか怯えた気配が潜んだ声で話していた十二が、胸元に寄り添ってくる。顔を見ると、目を細めている。夢を思い出しているのか、どこか寂しそうな顔だ。遠いどこかを眺めて、諦めている。そんな顔をするなと言ってやりたくなる。この子に似合わない表情だ。 「殴られたせいで鼻から血が出て、痛い。そこにいられないから、暗いところを歩いていく。裸足で、足が冷たい。どこか雨宿りできる場所を探すけど、行き場がなくてとにかく歩くんだ。そうしてると、古廟につく」  そこで十二はぶるりと体を震わせた。夢の中でも特に今話しているところが怖いのだろうか。 「線香の匂いがして、蝋燭に火がつく。その火をつけた人が何かを言うんだ。俺は答えようとするけど、いつも声が掠れていて、何も言えない。その人が近づいてきて、手を伸ばしてくる。そこでいつも目が覚める」  十二を抱きしめる。よく話してくれたと、震えている背中を何度も撫でた。  石鹸の匂いに、汗の匂いが混じっている。そして、子どもらしい少し軽やかな甘い匂いがする。 「目が覚めたら、もう痛くないか」 「うん。夢の中だけ。でも、痛いのを思い出すから、この夢は見たくない」 「そうだな。昔、雨の日にそんなことをされたのか」 「売人のところに戻ると、機嫌が悪くてよく殴られた。それで、雨の日でも帰れなくて外にいたら、全身がずぶ濡れになったことはある。でも、夢で見ること全部、本当にあったわけじゃない」 「怖かったことや嫌だったことが、断片的に、いや、つぎはぎになって夢に出てくるのかもしれないな」  難しかったのか、眠いのか、十二は小首を傾げてふうんと言った。鼻にかかった声は丸みを帯びている。 「俺といたら、その夢は平気になるか?」 「うん。虎哥といたら怖いのが平気になって寝れる。一緒に寝ると、夢は見ない」 「それなら、雨の日は俺の部屋に来い。怖い夢を見たときも」  軽く首を横に振りかけた動きで、胸元や首にくせのかかった髪が擦れた。  我慢するなとうなじを撫でると、くすぐったかったのか肩が小刻みに揺れたあとに頷きが返ってくる。 「俺、虎哥の迷惑になってない? 迷惑なら、一人で寝る。大丈夫」 「十二。大人の仕事は子どもに頼ってもらうことだ。迷惑だなんて思っていない。俺は頼りにならないか?」 「そんなことない。虎哥はいつだって頼りになる。……虎哥も怖い夢を見るの?」  そもそも夢を見るだろうか。思い出してみる。眠っているときに何かを見た、思い出した、感じた感覚はあっても、目が覚めると手をすり抜けるように記憶からすぐさま失われていってしまう。ただ、怪我で片目と声を失ってからは、ときどき真夜中に目を覚ますようになった。そういう夜は、たいてい涙で目元や頬が濡れていた。そのときだけ、過去の痛みが身体のどこかに未だに引っかかっていて、悪夢にでもなっているのだろうと考えた覚えがある。今では真夜中に目を覚ますこと自体、ほとんどなくなった。たまに目が覚めたときでも、涙を流していることはない。この変化を、かつての恐怖が薄れて夢として現れなくなった、と俺は推測している。 「おそらく、見ている。何を見たかまでは覚えてはいないが。昔は、夜中にふと目が覚めると、涙が出ていたことがあった。そのときは、夢を見ていたかもしれない」 「今はもう見てない?」 「涙が出なくなった。見てないんだろう」 「どうしたら平気になったの?」  分からない、知らない。それが正直な答えだった。ただ、この子は具体的な解決方法が知りたいのだ。俺に迷惑をかけたくないか、甘えていると思われたくないか、どちらかは判断できないが、怖い夢を見てもできるだけ一人で対処したいようだ。 「武術を続けて戦うのをやめなかったからか、時間が経って恐怖が薄れたのか。そのどちらかだ」 「えっと、虎哥は強いから平気だったの?」 「逆だ。弱いから強くいようとして、乗り越えられた。そう考えると、周りの者たちが支えてくれたおかげだな」  それこそ、お前のように。心配してくれる旧くからの友人たちや慕ってくれる者たち、自分の子として引き取りたいと思える相手がいるのに、どうして気弱になれるものか。あの戦いに負けて自分の弱さを嫌というほど突きつけられようが、周りを不安にさせたくはなかった。おかげで多少の見栄を張って、困難など気にしない振りをしているうちに、いつの間にか欠けた片目と声への後悔に気を取られなくなった。  そして、泰然自若に構えていられるようになった。自身が気に入ったものを守るためにはどれだけ弱かろうが、強い振りをする必要もある。俺がその振りを今までできているのは単に運がよく、周りの者たちに恵まれたからだ。 「虎哥は弱くない。九龍城砦で俺を守ってくれたとき、すごく強くて驚いた。かっこよかったのも、覚えてる」  どうして弱いと言うのか分からないと言いたげに、十二が口を尖らせて言った。いくら俺が言うことでも、これだけは不服なようだ。無邪気に信じてくれるかわいげについ口元が緩んだ。 「そう言ってくれるとありがたい」 「俺も虎哥みたいに強くなったら、怖い夢も平気になる?」 「そうなるかもしれない。だが、平気にならなくてもいい」 「どうして? 俺、虎哥みたいに強くなりたい。怖い夢を見ても、平気でいたい」  強くなることはいいことじゃないの? そう聞きたそうに十二は擦り寄ってきて、俺を見つめてくる。猫の瞳のように丸く、ぱちりと開かれた黒い瞳がよく見えた。暗闇の中でも一際純粋に黒く、澄んでいる。強くなろうが、そのままでいようが、この目に変わりはない。俺が気に入った子だ。  強くなりたいという願いは、今の自分を弱いと考えているから変えたい、と言い換えられる。強くなりたいと思うのは、この子が今のままでは俺に見捨てられるとでも考えているからだろう。自分のために強くなりたいのなら構わないが、俺の機嫌を取るために何かを変えようとするのはやめてほしかった。だが、原因は十二がこのままでいいと自由気ままに考えさせてやれなかった俺にある。子どものうちは、大人の顔色など窺わずに好きに生きてほしいという思いをうまく伝えられなかった。 「十二。俺にも、龍哥にも、怖いものがある。大人にも怖いものがある。だから、無理に強くならなくてもいい。何かあったら周りを頼ってくれ」 「無理してない。俺も、いつか虎哥や龍哥みたいに、誰かに頼ってもらえる強い人になる」  意地を張っているのか、声に弾みがついた。しなやかに飛びついてくるような声が心地よく耳に入る。とうとうこんなことを言うようになったか。嬉しさと同時に、黒社会にいる俺と阿風みたいになりたいなど、育て方がよくなかったと後悔が押し寄せる。その後悔の反面、十二の望みを断るか、もう一度考えてみなさいと諭せるほど、俺はできた人間ではない。 「そうか。なら、武術を教えよう。何をやってみたい?」 「虎哥と同じ!」  十二は俺にしがみついてきて、全身で喜びを表している。分かったと背中を撫でて笑い返す。 「まずやってみて、合うなら続けてみればいい。他には?」 「この前、信一と遊んだとき、信一は龍哥から武器を使った戦い方を教わってるって言ってた。俺もそういうの、使ってみたい」 「教え甲斐があるな。龍哥に頼んで、教えてもらうのもいい」 「うん、いろいろ教えてほしい。九龍城砦に行ったら信一にも会える。何を教えてもらおう」  怖さと一緒に眠気までもすっかり失われた明るい声に、これではしばらく眠ってくれなさそうだとこっそり溜め息をついた。溜め息のつもりだったが、喉の動きはほとんど笑っている。 「分かった、落ち着け。とにかくいろいろやってみろ。それで自分に合った戦い方を伸ばしていけ。……十二が強くなって、怖いものがなくなったら寂しくなるな」 「どうして? 怖い夢を見ても平気になるから、虎哥に心配かけない。強くなると、兄貴たちみたいに役に立てるかもしれない」  無邪気に理由を尋ねてくる声は心底不思議そうだ。大人が寂しいと思うの? そんな疑問を感じているのが明らかだ。大人になろうが、寂しくなることは減らない。何に寂しく感じるかが変わり、ほんの少し寂しさに慣れて扱いがうまくなるだけだ。子どものときより寂しいと思うことは減ったが、決してなくなりはしない。あまり言わない方がいいだろうか。大人は頼れないと思われかねない。  どう答えようか迷ったが、素直に言うのが一番だと潔く決める。 「お前に怖いものがなくなったら、こうして俺を頼って一緒に眠ってくれることもなくなる。独り立ちは嬉しいが、先を考えると寂しくなる」 「そうなの? それなら、俺、大人になっても、ずっと虎哥の傍にいる」  考えてもいなかった一言に喉の傷跡が疼いた。そう言わせるために引き取ったわけではない。  そう思う俺に、何かと理由をつけてありがたい心遣いを素直に受け取れないのか、この捻くれ者めと責める。俺の機嫌を取ろうとしなくていいと言いたくなったが、飲み込んだ。この子は裏表もなく無邪気に言っただけだ、それを機嫌取りなどと受け取るな。 「虎哥の迷惑じゃなかったら、だけど」  慌てたように続いた十二の声に、自分の喉が乾いていて黙っていたと気がつく。声はすぐに出なかった。代わりに細い体を抱き寄せて、首を振った。 「迷惑など、思っていない。嬉しくて驚いただけだ。だが、大人になったら好きなようにしなさい。俺とずっといては、そうだな……お前が好きにできない」 「俺、好きなことしてる。虎哥といたい」 「これから変わるかもしれない。変わってもいいんだ」  俺はこの子が好きにしているのが見たい。なるべく自由にさせてやりたいと思っている。だからこそ、自分のような大人に縛りつけたくない。ややこしく複雑な慣習や因縁と金と暴力が渦巻く黒社会にも、できるだけ関わらせたくない。それでも、近くにいれば十二が俺に影響を受けるのは免れない。不器用と分かっていても自分なりにかわいがるくせに、あまり好かれたくないと願うなど矛盾している。近くで世話をして遠慮なく頼れと言うくせに、いざずっと傍にいたいと口にされるだけで離れてほしいと思ってしまうなど、厄介で手に負えないひどい親だ。 「虎哥。俺、変わらない。変えたくないから」  真っ直ぐで鋭いほど真摯な言葉は、かすかな光を反射して夜の暗闇に眩く響く。もう見えない右目に焼きつき、居座ってしまいそうなほど印象的で、鮮やかだ。  煙草を吸いたくなった。失った右目が惜しい。この子を片目でしか追えない。両目で見られたら、もっと綺麗に、鮮やかに記憶に残せていた。阿風に相談したい。過去も、子どもも、自分が望むようにはならないなとお互いに笑い合いたい。 「そんなことを言うなんて、俺に似てきたみたいだな」 「だって、俺が廟街に来て結構経ったから。虎哥が一緒にいてくれる時間も長い」 「そうだな。もう数ヶ月は経つ。意地っ張りで、自分を曲げなくなってきた。いいことだ。お前らしさが出ていて、俺は好きだ」 「本当? 悪いことじゃない? 俺も虎哥が好きだから、似てると嬉しい」  悪いところは似てほしくないが、どんな面も一長一短だ。いいところが似れば、悪いところも似てしまうのは必然だ。それでも、どんなものでも俺の影響を受けて育つこの子はかわいらしく、俺も密かに嬉しかった。 「俺が好き、か。そんなことを言ってくれるとは、いい子だな、十二は」 「なら、もっと言う」  十二が俺の耳元に顔を寄せてきて、虎哥が好き、と囁いてくる。その声と吐息がくすぐったく、つい笑ってしまう。 「分かった、ありがとう。これなら、そろそろ寝れそうだな」 「うん」 「明日から武術を教えてやる。もう寝て、体を休めておけ」  十二はまだ遊び足りなさそうにじっと俺を見つめていたが、黙って頷き、背中を丸めて俺の腹あたりに収まる。こうしていると、この子は猫によく似ている。この子の自由気ままな気質が、俺のせいで汚れてくすんでしまわないといいが。触れると汚してしまいそうだと躊躇いつつも、背中を撫でた。少しすると、穏やかな寝息が聞こえてくる。撫でている背中も呼吸でゆったりと動いている。  関わる誰かや、いる環境、属している集団、考え、今まで重ねた因果、そういったものすべてに囚われず、いくら身勝手と言われようが、この子がやりたいことをして好きに笑って生きていってくれればいい。武術を学んで強くならなくともいい、戦わなくともいい、どうか俺のようになってくれるな。だが、自分で望んだ道を進める強さは持ってほしい。  かつての自分ができなかったことを押しつけていやしないか。俺が傍にいることでこの子に影響を与えているのは確かなくせに、綺麗事ばかりを求めているのではないか。一度持った疑問と悩みは連なっていく。  本当にこの子の行く末を考えているのならば、手放すべきではないか。  手放すべきだと判断したところで、唐突に離れて暮らそうとでも告げるのか。大人の勝手な都合で振り回しては、この子は納得せず心に傷を残してしまう。  どうするべきか。迷いは尽きない。  しかし、俺は気まぐれな虎だ。自分の感情がいくら矛盾していようが、最後には自分がやりたい道を選んでしまう。  今の俺はまだ、この子から離れる道を選べない。  仕方がない親だ。碌でもない大人だ。嫌気が差すが、そうでなければ俺はこうして生きていない。黒社会は、まっとうに正しく生きようとする善人から消えていく。  呆れを含んだ笑いで喉を鳴らす。目を閉じる。また考えればいい。今は寝よう。  手探りで背中を撫でる。触れるたびに伝わる体温が心地いい。くせ毛をそっと指で梳くと柔らかく、石鹸と汗、子どもらしい軽い匂いが混じった匂いが漂う。まだこの子も幼い。もう少し大きくなってから先を憂えばいい。しばらくはこの子のかわいらしさを堪能し、俺が近くにいて与える影響を忘れていたかった。  明日は十二に何から教えてやろうか、どんな武術が合っているだろうか、と考えているうちに、俺もいつしか眠っていた。






公開:2026年10月4日

更新:2026年10月4日

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