サンプル
虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ
『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。)
「仔の不安を虎は慰む」(書下ろし)
六
虎哥が俺を九龍城砦に連れていってくれるときは、いつも信一と遊ぶ。龍哥たちと料理を食べたり、テレビを見たり、龍哥に髪を切ってもらうこともあるけれど、子ども同士で遊んだ方がいいからと俺と信一の二人で自由にさせてくれることが多い。
そのたびに、俺と信一は九龍城砦のいろんな場所で遊んだ。龍哥の手下がいる喫茶店でお菓子をもらったり、信一に行ったことのない商店に連れて行ってもらったり、誰も使っていない部屋を見つけてsが出るかもしれないと中を探してみたり。もちろん、龍哥が行ってはいけないと言う場所には行かない。大人が行く店や薬物の中毒者が多い通路は、城砦の中でも子どもは行くなと口酸っぱく言われている。
今日も信一と二人で行ったことのない店を探してみようと、知らない通路に入って遊んでいた。
途中で拾った棒を振り回してテレビで見たアクションの真似をして歩いていると、見たことがない商店を見つけた。そこでジュースを買って飲みながら、通路の先へと進んだ。そうしているうちに、全然人がいない場所にたどり着いていた。
「信一、こんな場所があるんだな」
真っ直ぐ伸びた通路は薄暗い。奥には点滅した電灯がある。
「僕もここは初めて来た。工事の途中のままの場所かもしれない、気をつけて」
「慎重に行こう。探検みたいだ」
ひそひそ話しながら、俺たちはさらに通路の奥に向かった。忍び足であたりを見回す。空気がこもっていて、埃っぽい。静かで、人の気配や、誰かが使ってそうな様子はない。信一が言った通り、工事を途中でやめて、床や壁が崩れるかもしれない場所だから、誰もいないのだろうか。通路の奥にたどり着く。そこには階段があった。下を見てみる。
嫌な匂いがした。俺は思わず背中を丸めて、身構えていた。
薬物の匂いだ。それも、ついさっきまで薬物を炙っていたような、格別強い匂いがする。匂いが鼻を通ると、胸や喉が焼けるような、痺れて苦くなる感覚がした。吐きそうだ。
耳を澄ませる。誰かが話す声がする。俺は隣にいる信一と顔を見合わせて、口に手をあてて黙った。お互いに、何も言わなくても言いたいことが分かった。信一とは仲がいいから、何も口に出さなくても気持ちが分かる、みたいなときがある。
何かが危ない。誰かがいる。静かにして、俺たちがいると気がつかれないようにしないといけない。
「ほら、怖くないから」
男の声がする。耳を澄ませる。
「そうだ。これは体にいい薬なんだ。お金もいらない」
「試してみてよければ、他の子たちも連れてきていい。それでも、嫌なのか」
「怖いなら、おじさんたちが見ていてやる」
何とか聞き取った言葉の合間は長かった。ときどき、うんとか、えっと、といった子どもの声もした。話している大人たちは子ども相手に話しているようだ。
信一が俺の手首を掴んで、手のひらを上に向けた。手のひらに指で「大人が三人」と書いた。俺は頷き、信一の手に「三人は売人だ。子どももいる」と書く。
重々しい頷きに、俺は続けて「信一は虎哥と龍哥を呼んできて」と書く。信一は顔をはっと上げて首を振った。
大きく開かれた目が、だめだと俺を見つめて訴えている。下の階では男たちの声がしていて、誰かに薬物をやらせようと気味悪いほどに優しく、焦った調子になってきている。このままだと、誰かが俺みたいに無理に薬物をやらされる。そんなことは許せない。不安そうな顔をしている信一に大丈夫とあえて笑う。そして、来た方へ振り向かせて背中を押す。でも、信一は行こうとしない。俺の手首を掴んで、二人で階段の下に向かおうとする。信一の背中に「だめだ。二人とも帰れなかったら、どうするんだ」と書く。俺の手を引いていた信一の力が緩む。もう一度、背中を押す。
「ごめん」
信一は囁いて、足音を立てないように少しずつ離れていく。走っていく信一の背中は角を曲がって、たちまち見えなくなった。
深く息を吸った。吐き出す。
虎哥に怒られる。一人で危ないことをするな。そんなことが頭にちらつく。
でも、今は考える時間はない。
もう一度息を吸う。丸まっていた背を伸ばす。胸を張る。
虎哥は言っていた。戦うときは思いきり胸を張って相手に気圧されないようにするか、全身の神経を張り詰めさせて身構えて戦う。中途半端が一番よくない。
戦うなら、どちらかだ。堂々と死ぬつもりなどないと真正面から戦うか。生き残るために必死に抗い、本能に従って手段を選ばずに戦うか。
怖い、寂しい、不安、心配、一人きり。頼りになる大人も、友達もいない。
俺一人でうまくやれるのか。
何をすればいいのかも分かっていなくて、どうなるかなんてまったく考えていないくせに。一人で何をする気だ。
そんな気持ちは、思いっきり階段を駆け下りて置き去りにした。不安に押し負けないように勢いに任せる。
階段が残り数段のところで、一気に飛び降りた。大きな音を立てて着地。すぐに顔を上げて周りを見た。ちかちかと掠れて光る電灯の下には、大きな人影が三人分、その向かいに小さな人影が二人分。
「子どもに薬物なんか売るな!」
飛び降りた勢いを使って体を前に倒す。駆け出して、白い薬物が入った袋を持った男に思いきりぶつかった。相手はよろめく。手から袋が落ちた。
その袋目がけて走る。踏みつける。袋が破けて床に白い粉が広がった。
「おい! なんだ、このガキは」
「うるさい、お前たちこそなんだ! 子どもに薬物を売るのはここじゃだめだ。龍哥が決めたのに、知らないのか!」
言い返す。一人の男が飛びかかってきた。姿勢を落としてよける。壁の端の方で戸惑っていた子どもの方に走り寄って、早く逃げろと背中を押した。そこで、ようやく何かが危ないと気がついたのか、男の子と、その子より背が低い女の子は階段を駆け上がっていった。兄妹だろうか。二人で一緒に逃げてくれたから、安心した。
ふうと息が出た。でも、まだ気を抜いてはならない。
急いで振り向く。
視界の端に振り上げられた腕が見えた。
咄嗟に腕を持ち上げて身構える。
衝撃。痛み。
弾き飛ばされて壁にぶつかった。
床に倒れ込む。土埃で咳き込む。くらくらする。
殴られた腕がじりじりする。
床に手をつく。視界が揺れる。
壁に肩をついて立ち上がる。かろうじて指を曲げて、戦おうと構えた。
でも、指も腕も震えている。
言うことを聞かない。
どうしてだ? 戦うのは初めてだからか。
罵って舌打ちしたくなった。でも、唇も、舌もうまく力が入らなかった。
周りは男たちに囲まれている。
三人とも笑っている。
隙を見せるな、警戒しろ。
常に周りを見ろ。
体が追いつかなくても、耳で、目で、肌で、全身で追え。
油断するな。決して。
いつでも戦えるようにしろ。どこから襲われても、やられないように。
虎哥に何度も教えてもらったのに。
死にたいのか? 戦いを甘く見るな。
虎哥の声を思い出す。
違う。死にたくない。生きたい。
諦めるな。死ぬな、生きろ。
今、虎哥に教わったことで、できるのはこれくらいだ。
「おい、ガキ。よくもやってくれたな」
一人の男が近づいてきて、着ているタンクトップの襟を掴んできた。その腕を掴んで振り払おうとした。でも、頭がくらくらして力が入らない。胸ぐらを掴まれて、ぐいと持ち上げられる。引きずられるように隅に連れて行かれた。隅は電灯から離れるせいで薄暗い。この空間は少し大きい商店くらいの広さがある。古そうな棚や椅子、箱があって、悪い奴らが都合のいい隠れ場所として使っていたのかもしれない。
ごつん、と頭が壁にぶつかる音がした。壁に強く押しつけられて背中が冷たい。
「こっちは大切な商売道具を無駄にされて、せっかくのカモにも逃げられた。てめえに責任が取れるのか? 分かってるのか!」
体を揺さぶられてまた頭や背中が壁にぶつかった。硬い音が痛みと一緒に頭の中で反響する。怒鳴った声も合わさって、耳がきんきんした。
「知るもんか! お前たちが悪いんだ。悪いやつらをとめて、何が悪い!」
胸ぐらを掴んでいる腕に両手でしがみつき、必死で暴れる。怒鳴っていたやつは舌打ちして、残りの二人が俺の肩を押さえつけてくる。
「暴れるな! 扑街……」
顎を手のひらで覆うように掴まれる。体を動かして逃げようとしたけれど、まったく動けない。頭上から、顎を掴んでいる男が顔を覗き込んでくる。
「お前、廟街に引き取られたガキか」
目を見開く。すぐに視線を落とした。首を横に振ろうとしても、顎を押さえつけられていて目しか動かせなかった。そんな俺が無様でおかしかったのか、男はくすくす笑い出す。顎を掴んだ手が、好き勝手に動いて顔をいろんな方向に向けられた。まるで物を品定めするように俺を見てくる。
気持ち悪い。
ひどく殴られるか、殺されるか、そのどちらかに怯えていたのに、全然違う感情が押し寄せてきた。何をされるか分からない、気味が悪い、得体が知れない。
見るな、触るな、笑うな。
汚い。醜い。
このどろどろして、まとわりついてくる得体のしれない気持ち悪さは、俺を使って薬物を売っていた売人と似ている。
抵抗したいのに体を動かせないのが悔しくて、怖い。
「結構かわいい面をしてるな。男だが、金になりそうだ」
うなじから背中にかけて、ぞっとした。
息を飲む。冷や汗が背中を落ちていく。
何を言っているんだ。
かわいいだなんて、ふざけるな。馬鹿にするな。そんなことを言っていいのは虎哥と兄貴たち、龍哥くらいだ。
「写真を撮って廟街に売りつけてやるか。ばらまかれたくなかったら、買い取れって脅してやる」
「役に立ちそうにないのに、廟街の連中がわざわざ手元に置いてるガキだ。言い値で買ってくれるだろうな。立ち回りに気をつけないと、俺たちごと消されるが」
「消される前に、よく脅しておけばいい。売った以外の写真がまだ手元にある、とでもな。俺たちが写真を持っているうちは手出しができないはずだ。大切にしてるガキの写真を、趣味の悪い野郎どもに見せたくないだろうからな」
何かを話している。頭に入ってこない。言葉は聞き取れるのに、何を話しているのか理解できなかった。必死に体を捩って抵抗していると、肩を押さえつけていた男が逃げるなと怒鳴って、一度肩を離した。壁に押さえつけられる代わりに、俺の背後に回って羽交い締めにしてきた。
いくら脚をばたつかせても逃げられない。男たちは笑うだけだ。顎を掴んでいた男はようやく手を離して、近くに置いてあった箱から何かを取り出してくる。
カメラだ。俺に向かって構えられて、身動きが取れなくなった。
まるでナイフを突きつけられているようだ。ポラロイドカメラのレンズは飲み込まれそうなほど黒く、目を離したら自分がどうなるか分からなかった。
「これから何をされるか、ようやく理解したか」
カメラを持った男が粘ついた声で言った。
何をされるか分からない、ただ、碌でもない、嫌なことが自分の身に待ち受けていると直感する。
その感覚は正しかった。
手持ち無沙汰そうに立っていた男が近づいてきて、タンクトップの裾を持つ。ぞわりと背筋が粟立つ。虎哥や龍哥が触れると、むしろもっと傍にいたくなるのに、こいつらが触ると汚れた気になって気持ち悪い。
「やめろ、離せ!」
そう言うと同時に、裾が胸元まで持ち上げられて湿った空気が肌を撫でた。汗をかいているせいで冷たい感覚がした。
遠慮のない光が瞬く。殴りつけられたかと勘違いしそうなほど、鋭かった。咄嗟に目を閉じる。現実を見なければ、目の前で起こったことはなかった。そうなってほしいと願いたかった。目を閉じてじっとしたまま、何秒経っただろう。
「おい、目を開けろ」
顎をまた掴まれて思いきり揺さぶられた。抵抗すると、殴られる。薬物中毒のときでも、俺を使っていた売人にひどく殴られるのが怖くて、薬物が切れてくらくらした頭でも必死に従っていた日を思い出した。
あの日に戻ったみたいだ。
俺はうっすらと目を開けた。
胸元からお腹まで、剥き出しにされた自分が写っている写真が目の前にあった。
「もっと撮ってやる。お前が駄目にした薬物は高いんだ。その分くらいは、対価を支払ってもらわないとな」
「いい写真だ。子ども好きのやつらは喜んで欲しがるな。こいつはなかなかいい品物じゃないか」
下衆な笑いが頭上から聞こえてくる。俺は必死でもがいた。でも、逃げるどころかまったく身動きが取れずに、さらに笑われて何枚か写真を撮られただけだった。
顎から手が離れる。死に物狂いで頭を振って喚く。
「離せ! やめろ!」
「威勢だけはいいガキだな。さっきから抵抗してるがな、全然敵わないのが分かってないのか」
「こいつ、歳の割に小さくないか? 子どもらしい体つきのおかげで、写真は高値で売れそうだがな」
「おい、もっといいやつを撮ってやる」
また顎を掴まれて動けなくなった。せめてもの抵抗だ。正面にしゃがみ込んで、にやにや笑って見つめてくる男を睨みつける。相手は肩を竦めて、おお怖いと嘲笑い、カメラを持っていない腕を伸ばしてきた。腿に触れる。膝丈までのズボンの裾の下から指が入ってくる。膝の裏や腿に指が触れた。
他人が滅多に触ってくることのない場所を指が撫で回してくる。そのたびに膝が揺れて、体が竦んだ。この手つきはなんだ。何をするつもりだ。得体が知れない生き物のように動き回る指と腕に、息が詰まった。
一度ズボンの下を探っていた指は出た。でも、息をつく間もなく、指はズボンの上から脚をしつこく撫でてくる。そして、腿から股へと手が上がってくる。
肌の上を蛇が這い回っているようで、気持ち悪いくすぐったさは耐えがたい。体が動きさえすれば、振り払っていた。
いつの間にか呼吸が浅くなり、乱れていた。怖い。
指は股の間を探っている。なんでそんなところを触るんだ。気持ち悪い。鼻の奥が痛い。脚を閉じようとした。タンクトップの裾を持ち上げていた男が、脚を押さえつけてくる。できるだけ力を入れて抵抗したのに、強引に脚を開かされた。
「やだっ、離せ! 触るな、やめろ!」
汚い、見るな。触るな。気持ち悪い。
誰にも触られたことない場所を探られて、吐き気がする。喉が引き攣ったのか、うまく呼吸ができない。
それなのに、触られているところは妙にくすぐったくて、お腹の下あたりがむずむずする。熱くなってくる。背中は冷や汗が伝っているのに、股の間を触られるたびにお腹がぞわぞわして、疼く。
「こういうのは初めてか? 初心なガキの写真は高値で売れるからありがたいな」
耳に入ってくる言葉が頭の中で反響する。耳から頭にへばりつく。こいつらは汚らわしい、ひどいやつらだ。
でも、俺は何もできない。押さえつけられている俺は、こいつらにとって単なる商品で、物だ。値踏みされ、撫で回され、どんな価値があるか無遠慮に探られる。
自分もこいつらみたいに汚くなっていく。真っ暗な底に落ちていく感覚がする。薬物の効果が切れたとき、俺を使っていた売人の機嫌が悪くて何もしていないのに殴られたとき、そのうえ部屋の中に入れてもらえなくて雨と外から入ってきた人の足跡でどろどろになった通路で眠ったときの気持ちと似ていた。
誰の目にもとまらない。誰も気づいてくれない。
かわいがってほしい、構ってほしい。大切にしてほしい。
そんなことは望まない。いらない。
ただ、俺を真っ直ぐ見て、傍にいさせてくれるだけでよかった。俺に何も価値がなくても、いるだけでいいと言ってほしかった。誰かの傍にいたかった。安心できる、誰かのところに。
ズボンと腰の隙間に指が入る。肩が揺れた。
視界が滲んだ。目の前では、男がカメラを構えている。
「いや、やめて……やだ……! 離せ、やだ、離して……!」
懸命に手脚を動かしても、押さえつけられて動けない。
それどころか顎まで掴まれてカメラから顔を背けられない。
下着ごとズボンが下ろされた。空気が冷たい。
「ひっ……、やだ! やめて、撮らないで、だめ!」
怖い、苦しい、気持ち悪い、触るな、いやだ。
「やめて、いや……離して、お願いだから……」
光が瞬いた。眩しい。
ごめんなさい。
「虎哥、助けて……父さん……」
頬に涙が落ちていく。
呼吸が詰まる。目を閉じる。
光で白くなった視界の端に、人影が見えた気がした。
目を閉じきった直後。
体が揺れた。
顎を掴んでいた手が離れた。
次の瞬間、何かが吹き飛ばされたような音がした。
目の前で、嗅ぎ慣れた匂いがする。
虎哥が吸う煙草、廟街であげられる線香、俺と同じ石鹸の匂い。
少し目を開ける。
同時に背中から衝撃と鈍い音がした。
俺の脚を掴んでいた手と、羽交い締めにしていた腕が離れた。
顔を上げる。必死に。
滲んだ視界に、まず見慣れた上着が入った。茶色の革の上着。白いシャツ。
大きくてたくましい腕が差し出されている。腕を伸ばすと、抱きとめられる。
「虎哥……父さん、父さん……」
「遅くなってすまない。もう大丈夫だ」
俺を抱きかかえたまま、虎哥は羽織っていた上着をかけてくれる。気がつけば下ろされていた下着やズボンは元通りになっていて、俺は座っている虎哥に抱きついて泣きじゃくっていた。
「虎哥、十二は無事か」
「ああ。怪我はなさそうだ」
「売人どもはどこだ」
「下の階で倒れている。叩きのめしておいただけだ。殺してはいない」
「助かる。おい、下にいる売人どもを捕まえてこい。ここで好き勝手にさせないために、少し話しをさせてもらわなければならない」
周りからは、何人もが行き交う足音と龍哥が手下たちと話している声が聞こえている。虎哥が立ち上がって抱き上げられる。俺は虎哥の胸元に顔を埋めたまま、しがみついた。何人分もの足音と話し声が遠のいていく。抱きかかえてくれている虎哥の腕が温かかった。
龍哥の理髪店で、シャワーを借りて虎哥が体を洗い流してくれた。信一は着替えの服を貸してくれた。どうしてここまで周りが優しくしてくれるのか分からなくて、もしや俺は何か悪いことをしたんじゃないか、本当に汚くなってしまったせいで周りの人がよそよそしくなっているんじゃないかと不安になった。もちろん、そんな不安は言わなかった。どうして優しくしてくれるのかなんて言ったら、本当に嫌われてしまいそうで怖かった。
シャワーを浴びたあと、店のソファで俺は虎哥の傍でじっとしていた。気が抜けるといつの間にか泣いていて、そのたびに信一がお菓子やジュースを渡してくれた。それを食べたり、飲んだりしながら、どうしてこんなに優しくしてもらっているのに泣いてしまうのか自分でも分からなくて不思議だった。
ここは安全で、ひどいことをするやつはいない。虎哥も信一も傍にいてくれる。ここまで気を遣ってもらっているのに泣くのが許せなくて、腕に噛みついて自分に文句をぶつけてやりたかった。もういいだろ、怯えるな、大人しくしていろ、と。
昼を少し過ぎた頃、龍哥が店に戻ってきた。あの売人たちは目につきにくい場所で子どもを狙って騙し、薬物をやらせていたこと、中毒になった子どもは黒社会の仕事や、子どもの周りの大人に薬物を売るために使っていたと教えてくれた。もうこんなことが起こらないようにする、だからまた九龍城砦に遊びに来てほしいと、龍哥は俺に視線を合わせて話した。その真剣な顔とそっと頭を撫でてくれた感触は、ずっと忘れないだろうと思った。
売人たちが撮った俺の写真はすべて探し集めて、焼いたから安心してくれと言われて、頷いた。けれども、居心地は悪いままだった。
龍哥はカメラも原型を留めないくらい壊したと言っていた。カメラがなくても、虎哥と龍哥は俺がどんな写真を撮られたか知っている。きっとあの写真を見ている。何をされたか聞かないでくれているけれど、知っているか、察している。俺がした無茶で無謀な行動は叱られず、どうしてこんなことをしたんだと責められもせず、よく考えて行動したのかと説教すらされていない。
俺を心配して、何が何でも守ろうとしてくれている虎哥と龍哥に、自分のしでかしたことと、売人たちにされたことが恥ずかしくて、謝りたかった。
優しくされればされるほど、自分が売人たちにひどい目に遭わされたと理解していく。だから、優しくしないでほしかった。
いっそぶたれたかった。怒られたかった。
悪い子だ、どうして後先考えずに行動に移したんだ。考えなしに動くから、あんな目に遭うんだと。
お前は汚いんだと突き飛ばされるくらい、嫌われてしまえばよかった。虎哥から廟街を出て行けと言われたら悲しい。でも、心のどこかでほっとしていただろう。どうして売人たちにあんなことをされて汚れた俺に、こんなに優しくしてくれるのかが分からなくて、怖くなるからだ。優しくしてもらえる価値なんて、俺にないのに。
虎哥の上着を両手で握りしめる。頬を虎哥の胸元に押しあてる。また涙が勝手に伝い落ちていく。
「十二、大丈夫か」
龍哥が俺の顔を覗き込んで言った。目元に力が入った不安そうな顔をしている。小さく頷き返す。
「うん、……大丈夫」
泣いていたせいか、喉が痛くてゆっくりとしか話せない。
「虎哥、今日はもう帰って休んでくれ。十二も疲れている。怪我こそしていないが、強い負担がかかったのは間違いない」
平気だと言う代わりに頭を何度も横にしたけれど、龍哥は弱々しく笑って無理をするなと言った。無理なんてしていないと口を開けたとき、虎哥の胸元から息を吐く音が聞こえた。
「そうだな、もう帰ろう。しばらくは十二の調子に気をつける」
「頼む。何か手伝えることがあったら連絡を。売人どもの件はすぐ片付ける」
「おい、龍哥、そんな心苦しそうな顔をするな。お前が悪いんじゃない。子どもにまで手を出すあくどい連中が悪いんだ。信一もだ。信一がいなかったら、俺たちは十二を助けられなかった。ありがとう」
虎哥は俺を抱えたまま立ち上がる。虎哥と二人きりでないときに、子どもみたいな扱いをされて恥ずかしい。それでも、今は虎哥と少しでも離れる方が嫌だった。
「またな、龍哥、信一」
理髪店の扉を開けて通路に出た虎哥が言った。俺も何とか口を開く。
「また来る。龍哥、信一、俺は大丈夫だから」
そう言うと、信一が泣きそうな顔をしたのが見えた。ごめんと、目を伏せる。扉が閉まる音がした。虎哥の足取りはゆったりとしていて、穏やかな振動が伝わる。お腹は減っていない。眠くもない。頭がやけに重くて、目を開けているのすら億劫だ。虎哥にしがみついている以外は、何もできなかった。
しばらくすると、風が頬にぶつかった。砂の匂いがする。髪が流される。虎哥の足音が変わった。土や砂を踏む音。少し歩いた先で、虎哥が体を屈めた。車の後ろの席に座わる。目を開けて、隣に座っている虎哥にもたれかかった。車が発進した。いつもは外を見るけれど、俺は体を倒して横になって、虎哥の脚に頭をのせた。帰りたくない、こんな俺が廟街に帰っていいのか分からない。
でも、車を降りるわけにもいかない。どうしようと思っていると、そっと頭を撫でられて指で髪を梳かれた。大きな手だ。よく知っている撫で方。
どうして虎哥は、こんなに優しくしてくれるんだろう。
分からない。俺には優しくされる理由も、価値もない。優しくされると嬉しい。素直にそう思えばいいのに、虎哥が撫でてくれる理由が分からないのが怖くなって、また涙が出てくる。流れた涙は虎哥のスラックスへと落ちていく。
きっと虎哥は俺が泣いていると気がついている。それでも、何も言わずにずっと撫でてくれた。
何度も瞬き、涙がこぼれ落ちていくのをとめなかった。虎哥のスラックスを汚したら、虎哥もさすがに嫌気が差して俺から離れてくれると思った。
どうか優しくしないで、あんな目に遭った俺は汚いから。でも、虎哥から離れる勇気は俺にはなくて、嫌いだ、迷惑だと突き放されたかった。
車が停まった。それまで虎哥は俺の頭や髪を撫でてくれていた。体を起こして虎哥にもたれかかる。背中に腕が回る。扉が開くと、抱きかかえられて外に降りた。本当は大丈夫だと一人で立って歩きたかったけれど、脚に力が入らなくてだめだった。
目を閉じる。周りはざわついている。兄貴たちの声がする。大丈夫か、誰がやったと聞いてきているみたいだ。声は聞こえるのに。頭の中でうまく言葉になってくれなくて理解できない。虎哥の手が俺の背中から離れて、すぐに手が背中に戻って、抱え直してくれる。そのときから周りの声が少なくなった。人の気配も減っていく。扉が開く音がして虎哥の足音が変わった。硬い足音は、階段を上がってほんの少し軋んだ音が混じる。
また扉が開く音。自分の部屋の匂いがする。
目を開ける。虎哥のシャツが見える。ベッドに横たえられた。握っていた虎哥の上着を離す。全身に張り詰めていた力を抜いても、ベッドに横たわる感覚をすっかり忘れてしまったのか、落ち着かなかった。すぐ傍に虎哥が腰をかけて、顔にかかっている髪を払ってくれた。
「十二、大丈夫か?」
「うん」
「気分は悪くないか。腹は減っていないか」
「気分……」
自分の気分がどうなのか、本当は分からなかった。胸の奥が、どろどろしたもので詰まったようになっている。何が詰まっているのかも、どうすればどろどろを出して綺麗にできるのかも分からない。でも、どろどろのままでも、生きていける。龍哥に助けてもらって、廟街に来るまで、このどろどろは俺にずっとあった。このどろどろは、久しぶりに戻ってきただけだ。
「気分は大丈夫。お腹は少し減った」
「お前が食べられそうなものをすぐ持ってくる」
「ありがとう」
虎哥は俺にタオルケットをかけてから部屋を出ていった。その背中を目で追い、扉が閉まったところでやっと目を閉じた。ここは安全だと今さら頭が追いついて、気が抜けたのか。体を動かす気さえ起きない。柔らかいベッド、落ち着く手触りのタオルケット、線香や煙草の気配が少しだけする部屋の匂い。外ではひゅうひゅうと音を立てて風が吹き、窓がかたかたと音を立てている。
雨が降りそうだ。こういう風が吹くと雨が降る。信一が教えてくれた。九龍城砦にいたときは入り組んだ建物の隙間を通る風の音をよく耳にした。狭いところを吹き抜けるから勢いがついて、鋭い音をしていた。テレビでやっているドラマで、振り抜かれる剣そっくりの音だ。
そういう音でも、特に冷たくて、体を切り裂くようなものは雨が降る前兆だ。
懐かしい。でも、今は少し怖い。さっき、九龍城砦で売人たちにあんな目に遭わされたからだろうか。
あちこちを掴まれ、撫で回された感覚を思い出す。肌がざわざわした。
思い出したくないのに。ベッドに顔を埋めるように額や頬を擦りつける。
薄闇、笑い声、カメラのシャッター音、眩しい光、動けない体。やめて、離して、助けて、父さん。
扉が開く音。肩がびくっと揺れて目が開く。
ぱっと体を起こしてあちこちを見回す。お椀を持った虎哥が俺を見ていた。さっき見たのは、夢だったんだ。まだ頭に体が追いついていない。心臓がどくどくと鳴っている。額から汗が伝い落ちた。
ぽつぽつと音が聞こえている。雨が降っている。
「起こしたか? すまない、驚かせたな」
「驚いてない。平気」
急いで頭を振って、ベッドの端に座る。隣に座った虎哥は俺にお椀を渡して、首を傾けた。頬を包み込むように大きな手が添えられて、指が目元をたどる。
「泣いている」
「え? 知らなかった」
手の甲で目元を拭う。いつ泣いていたんだろう。何が悲しい、怖い、辛い? 自分でも何に泣いているか答えがなくて落ち着かない。
「お粥を作った。お前が好きな卵が入っているやつだ。これなら食べられるか」
「うん、ありがとう」
れんげも渡された。熱いお粥を一口ずつゆっくりと食べていく。
お腹が温まっていく。なぜかまた涙が出てきた。鼻を啜りながらお粥を食べた。お椀を空にすると、虎哥がお椀を受け取って、代わりに飴を渡してくれた。
「それを食べたら昼寝でもして、休めばいい。今日は、疲れただろう」
「虎哥はどうするの」
「俺は仕事だ。廟街の店を改装費をどうにかしてほしいだとか、新しく開く店に金を融通してほしいだとか、金の都合をつけないとならない。他にも、目を通さなければいけない書類がある」
渡された飴を握りしめた。一人になるのが怖かった。こんな雨が降る日に、一人で怖い夢を見ずに寝られたことはない。起きていてもそわそわしてしまって、じっとしていられない。でも、虎哥の仕事の邪魔はしたくない。今の俺は何もできないどころか、むしろ周りの人たちを心配させて迷惑をかけている。大人しくしていないと。
俯き、膝を見る。誰かの、虎哥の近くにいたいと言いたいのに、言えない。優しくしないでほしいのに、嫌われたくない。変な気持ちだ。自分でもどうしたいか、誰にどうしてほしいのか全然分からない。黙っていると、虎哥が動く気配がした。
「雨か……冷えるな。十二、よければ、俺といてくれないか。一人で仕事をしていると少し寒い」
顔を上げる。窓の方を見ていた虎哥は顔をこちらに向けて、優しくほほえんだ。頷き返すと、虎哥は俺の頭を撫でてから立ち上がる。俺も立って、虎哥のあとについていった。下に降りて、虎哥がいつも仕事をする部屋に行った。この部屋には背の高い本棚と、いろんなものが入った棚が置いてあって緊張する。大人になるってことは、こういう物がたくさんある場所に慣れること、そして、たくさんの物を管理とか、大切にできることなのだろうと、ここに入るたびに思う。
虎哥が棚から書類や帳簿を出している間、俺は部屋の一番奥にある年季の入った棚へと向かう。この棚は何度見ても飽きない。普段は開けられないように鍵がかけられていて、虎哥にもここは開けるな、中身を触るなと言われているから、ガラス越しに中を眺める。汚れたボタン、レンズに罅の入った眼鏡、あちこちが黒ずんだ手袋、塗装が剥げたラジカセ、くもって鈍い色をした指輪、刃の欠けたナイフ、隅に文字が刺繍されたハンカチ、写真が入っているペンダント、潰れた煙草の箱、あちこちが錆びているライター、知らない人が写っている角の折れた写真。どうしてこの棚の中に大切そうに入っているのか知らないけれど、過去にどんな人が持っていて、なぜここにあるのかを想像するのは楽しくて、何度見ても飽きない。
背後で椅子を引く音がした。
棚に背にして、小走りで大きなテーブルに向かう長椅子に近寄る。虎哥は長椅子に座って帳簿や書類を広げている。俺はその隣に座り、虎哥にもたれかかる。さらさらと紙の上をペンや鉛筆が滑らかに走る音がする。音がするたび、もたれている腕が動くのが伝わってくる。ぼんやりと机の上を眺める。雨の音、紙に何かが書きつけられる音。ときどき虎哥が煙草に火をつけて、煙を吐き出す音が混じる。
この煙草の匂いは落ち着く。大好きだ。さっきもらった飴を握って、口を開く。
「ねえ、虎哥、あの棚は何?」
「言ってなかったか」
「うん。聞いたことない」
「そうか。だから、いつも見ていたのか。あれは……俺の昔の友達や、仲間が持っていた物だ。亡くなったとき、事情があって正式に弔えなかった。あれだけが俺の手元に残った」
「形見?」
「そうだ」
顔を上げる。虎哥は窓の外を見ている。どこか遠いところを眺めている。自分が忘れられてしまっていないかと急に不安になった。思わず虎哥の上着を掴んだ。
「あれがどんなものか知って、怖くなったか」
「怖くない。ただ」
心細かった。寂しい気もする。俺が知らない虎哥がいる。そして、たとえもう生きていなくても虎哥に大切に思われている人たちがいる。そこに俺はいない。どれだけ近くにいたいと願っても、ここから踏み込んではいけない境界線があって、これ以上は近寄らせてもらえない。そんな距離があると気がついてしまった。
「うまく言えない。あれを持っていたのはどんな人なんだろう、って思う。不思議な気持ちだ」
きっと、その人たちの中に俺は入れてもらえない。
入れてほしいと言ったら、虎哥は困った顔をするか、子どもが決めるにはまだ早いと言って真剣に聞いてくれないだろう。だって、俺は虎哥の友達でも、仲間でもない。龍哥は、虎哥は俺にとって養父、つまり、親だと言っていた。
「怖がられなくてよかった。あの棚に形見を残しているやつは、みんな、気のいいやつだった。お前にも会ってほしかった」
嗄れた虎哥の声はいつもと違って、どこか嬉しそうだ。あの棚にある物を持っていた人たちが羨ましかった。
死んで、この世からいなくなってしまっても、こうして虎哥の記憶にいる。俺はどうだろう。いなくなったら、虎哥は思い出してくれるだろうか。
「信頼できる仲間が、俺を生かしてくれた。お前に会えたのも、彼らのおかげだ」
頷いて、虎哥の腕に額と頬を擦りつける。もういないのに、虎哥に覚えていてもらえる人たちが羨ましい。
なぜか虎哥は俺が黒社会に関わってほしくないようで、俺には勉強をさせたり、信一と遊ばせたりして、仕事で何をしているかなんてなかなか教えてくれない。虎哥を困らせることを言いたくなんてないから、俺も黒社会に入りたいなんて言わない。でも、武術を教わっているうちに、虎哥のために戦えたらどんなにいいだろうと、黒社会に入ることに憧れるようになった。黒社会に入りたい、虎哥の役に立ちたい。この気持ちは抑えようとすればするほど、どんどん強くなっていく。どうして虎哥は俺を仲間にしたがらないんだろう。
危ないことも、死ぬかもしれないことも、俺は平気だ。できるだけ傍にいて、戦いたい。どんなに難しい書類仕事でも片付けられるよう勉強もする。そう言ったら、虎哥は怒るだろうか。悲しむだろうか。呆れ果てて、俺をどこか遠くへやって、捨ててしまうだろうか。
そうなったら、飴をくれることもなくなるんだ。手に握っている飴を。さらに強く握った。今は食べたくなかった。食べたら、なくなってしまう。
雨が一層強く窓を叩く音がした。頬を涙が伝っていた。目を閉じる。
「父さん」
「眠くなったか」
分からない。そのまま動かないでいると、かたんとペンが置かれる音がした。頬を指で拭われる。温かい手に寄り添う。肩を支えられて、ゆっくりと長椅子に横たえられた。虎哥の脚の上に頭をのせた。
「夕食には起こす」
頷き返した。雨の音はラジオのノイズみたいだった。虎哥と一緒だと、いつもは嫌気が差す雨の音でさえも心地いい。そのまま目を閉じていても眠れなかったけれど、うとうととして水の中に沈んでいるような感覚がした。
紙にさらさらと書きつけていく音、虎哥が吸う煙草の匂い、窓を叩く雨音。ときどき虎哥の脚が動く。髪をくすぐるように撫でられる。誰かが部屋に入ってくると、お茶の匂いがした。虎哥に肩を叩かれたけれど、目を開けられなかった。眠っていないと思っている間にも、実は深い眠りに沈み込んでいたのかもしれない。
じりんと電話が鳴る音がした。
うなじに力が入って、肩が揺れた。体の感覚がはっきりしていくのが分かった。水中に潜り続けて、浮かんで息を吸ったら、こういう感覚なのかもしれない。どれくらい時間が経ったのだろう。ここはどこだろう。
片手に何かある。握った。丸い、ビニールの感触がする。虎哥がくれた飴だ。
そうだ、九龍城砦に行って、帰ってきたんだ。ここは廟街で、俺は虎哥の仕事部屋にいる。.きっかけを掴むと、するすると思い出していく。頭の下にある虎哥の温かさから、長椅子の上で横になったところまでたどり着く。目を開けて窓を見る。窓の外は暗くなっている。
「阿風か。ああ、そうか。教えてくれて助かる。明日にはそちらに行って、落とし前をつける。……十二か? やはり、いつもより元気がなさそうだ」
電話で虎哥が話している相手は龍哥みたいだ。虎哥たちは俺がいないところだと、こうして呼び合っている。俺が知らない虎哥を、龍哥や秋哥は知っている。あの二人とは長い付き合いだと虎哥は言うけれど、どれくらいか知らない。俺は龍哥たちくらい長く、傍にいさせてもらえるだろうか。長椅子の上でずっと横になっていたせいで硬くなっていた体を伸ばすと、肩から背中にかけて、大きな手で撫でられた。
「もう謝るな。信一にも、よく言っておいてくれ。十二を助けてくれてありがとう、と。……ついさっき十二が起きたんだ。俺の隣にいる。話すか?」
体を起こして虎哥の隣に座った。虎哥は首を傾けて、龍哥と話すかと尋ねてくる。頷くと、受話器を向けられる。俺は受話器に耳を押しあてる。
「もしもし、龍哥?」
「十二。具合はどうだ」
「大丈夫だと思う。痛いところはないし、ご飯も食べられる」
「そうか。だが、体に変わったところがなくても、不安なことがあったら、すぐ虎哥に相談しなさい」
「うん」
「俺もできるだけ力になる。元気になったらまた遊びに来て、信一に会ってくれ。それか、俺が信一を廟街に連れていく」
「きっとすぐ元気になる。心配しないで、龍哥。また信一に会うのが楽しみだ」
龍哥の声はいつもより優しく聞こえた。気遣ってくれている。だから、俺もこれからどうなるか分からないくせに、すぐ元気になるなんて言ってしまった。元気になれなかったら、龍哥と信一を悲しませるだろう。
それは嫌だと思いながら、受話器から耳を離す。虎哥が電話を変わって話す。
「十二はいい子だろう。お前も後悔ばかりして体を壊すなよ。そうだな、十二が信一と遊べそうになったらまた電話する」
受話器が置かれて電話が終わる。机の上にはまだ書類がいくつかあったけれど、虎哥に背中をそっと支えられて立つように促された。
「もう夕食ができている。そろそろ腹が減っていないか」
立ち上がる。確かにお腹が空いている。
「うん、お腹減った」
「だろう。今日は、お前が好きなものを作らせた」
目を擦ってあくびをした。まだ眠気が残っている。手には、まだ飴が握りしめられている。
離すのが、食べるのが、怖かった。これがなくなったら、寂しくてまた涙が出そうだった。でも、俺が大人になったら虎哥は飴をくれなくなるだろう。つまり、この飴はいつかはなくなってしまう。いつまでも甘え続けられない。俺はズボンのポケットに手を入れ、ゆっくりと手を開く。
飴を離す。ポケットに落とし、手を空にする。
虎哥が俺の背中に手をあてたまま、部屋の扉を開けてくれた。支えていないと、俺がどこかに行ってしまわないか心配しているのかもしれない。
そんな心配をさせるのが申し訳なくて。俯きながら、虎哥と一緒に部屋を出た。
公開:2026年10月4日
更新:2026年10月4日