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虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ

『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。) 「仔の不安を虎は慰む」(書下ろし)    四  天気がいい。空は青く、高い。涼しい風がときどき吹いてくる。庭の草木が風にそよぐ。まだ朝が早いおかげで、周りの様々な音が通りを走る車の音に掻き消されていない。  庭では、十二が声を出しながら基礎となる突きを繰り返している。俺は庭に面した軒先の下にある椅子に座って、煙草を吸いながら十二が練習するのを眺める。  姿勢は滑らかで、肩から腕にかけての力が拳に通っている。無駄な力が入っていない。自然ないい構えができている。  眼差しは真剣で、鋭い印象の面持ちをしている。  力を振るうことに真摯で、本能的に身構えている。同年代の子と比べると体格こそ引けを取っているが、十二に武術の才があるのは明らかだ。  薬物の離脱症状で体力も落ちているはずだが、負けず嫌いなのか、信条を貫く芯の強さが抜きんでているのか、子どもとは思えないほど熱心に練習に励む。集中して毎日取り組むため、飲み込みが早い。  おかげで、教えてから日も浅いのに教えた基礎の動きはほとんど覚えて、戦うときはどういった体の動かし方が重要になるのかを既に感覚で理解し始めている。  通りの方から聞こえる車の音が増えてきた。俺は立ち上がって片腕を上げた。十二はぱっと顔をこちらに上げ、走り寄ってくる。 「虎哥! 今日はもう練習終わり?」 「もうとは言うが、ずいぶん練習していた。疲れていないか」 「平気。まだまだできる」  汗で濡れた前髪が額だけでなく目元にも落ちている。それを指で払い、家の方に顔を向ける。 「兄貴分たちは朝食を終えた。そろそろ廟街へ仕事に出かける時間だ」 「そんな時間?」  目を丸くした十二が驚いた声を上げると同時に、ぐるぐると元気よく腹が鳴った。 「腹も減った頃合いだな。汗を拭いて着替えてきなさい。朝食を食べに行こう」 「すぐ着替えてくる。待ってて」 「焦らなくていい。待っている」  そう言ったが、十二はとっくに駆け出していて、家の中に飛び込んで行った。  その勢いだけでも元気に溢れていて、見ているだけでもかわいらしい。遊びたくて堪らない、犬や猫と似たかわいげがある。俺は軒下に置いてある椅子に座り、煙草を吸った。流れる風に舞っていく煙を眺めながら一本吸い終わりかけたとき、家の中からぱたぱたと足音が近づいてくるのが聞こえてきた。庭に飛び出してきた十二は着替えている。  膝丈のズボンにタンクトップに薄手の上着。動きやすい格好が好きなようで、服を買いに行って彼に選ばせると、いつでも走り出せるくらいに身軽な服を選ぶ。見た目より動きやすさを優先していて、阿風や理髪店に置いてある雑誌に憧れて洒落た服を好む信一とは、対照的だ。洒落ているか、流行に合っているかを気にしなくてもいいのかと思うが、十二には身軽な服装がよく似合っている。どんな格好をしたいか、外見にこだわるか、そこにはまだ興味がないだけだ。洒落た格好を楽しみたい時期も、成長すればいつかは来るだろう。  まだ全体的に身体は細く、関節の骨が目立つが、廟街に来たときよりも身長も伸びて体つきも同年代の子どもと見劣りしなくなってきた。九龍城砦で会ったときは腕や脚のあちこちにあった傷も、ほとんど治っている。今の十二はどこに出しても健康的で、元気を持て余して周りの手を焼かせる少年に見える。  かつて薬物に苦しみ、阿風と信一に助けられるまでほとんど誰にも面倒を見てもらえなかった痩せこけた子どもの姿は、いつの間にか過去のものになっている。このまま薬物を二度とやらず、無事大人になってほしい。  最善はいつか俺のもとを離れ、黒社会と縁が切れることだ。うまく切れてくれればいいが。切れなかったらどうするつもりだ。自問自答を始めかけた頭を、テーブルに置かれていた灰皿に煙草を押しつけてとめた。暇があると、つい十二がいつ黒社会と縁が切れるかを考えてしまうが、いつも答えは決まっている。俺がこの子との縁を切ろうと思ったときだ。確実に切れるのは、それだけだ。唯一の問題は、いつ切るかを躊躇っている自分にほかならない。結局、自分の問題に行き着いて堂々巡りを繰り返す。考えるだけ無駄だ。 「虎哥、行こう」 「本当に早かったな」 「だってお腹空いた。それに虎哥を待たせたくない。置いていかれるのは嫌だ」 「お前を置いてどこかに行かない。心配するな」  十二の背に手をあてて行こうと促す。小さな手が俺の上着の裾を掴み歩き出す。庭から外に出て馴染みの店に向かう。  近所でも特に食事がおいしく、顔馴染みの俺の立場を気遣って人目の少ない席に案内してくれる。裏通りにあって混雑しにくいことにも助かっている店だ。歩いているうちに十二の足取りは軽くなっていく。 「虎哥、今向かってる店って」 「食事がうまいあの店だ。何が食べたい?」 「蛋撻。ご飯は何にしよう。どれもおいしいから選べない」 「決めるのが楽しみだな」  頷いた十二の歩みはわずかに早くなる。俺も歩調を合わせた。店に着くと店内でも人目につきにくい、階上のバルコニーに通される。向かいに座ってメニューを食い入るように見つめる十二が何を頼むか決めるのを待つ。ここに初めて連れてきたとき、十二は何も選べなかった。好きに頼めと言ったのだが、余計な金をかけたくないと遠慮したのと、俺が好きではない料理を頼んだら怒られると思っていたようだ。そのときは、十二の代わりに俺がほとんど選んだ。唯一、十二が選べたものは蛋撻一つだけだった。  しかし、今では違う。紙に食べたい料理を書いていき、最後に蛋撻を二つ、と書いてバルコニーを出ていく。  店主に注文を渡しに行った十二はすぐに戻ってきて、椅子に座ると待ちきれないのか脚を振っていた。 「ようやく、武術の練習をしすぎたと分かったか」 「うん。お腹が減って、もう練習なんかできない」 「だから、無理をするな、適度にやれと言っている。倒れる前に休め。腹が減っては戦ができぬと言う」 「気をつける。でも、虎哥か、兄貴の誰かが見ていてくれるから大丈夫」  そうだよね、と首を傾げる。俺は肩を竦めながらも、そうだなと笑った。そうしているうちに頼んだ料理が運ばれてくる。おいしそうな匂いに十二が目を輝かせる。それでも、俺への気遣いは忘れずにちらちらと見てくる。 「気にせず食べなさい。俺も好きに食べる」 「ありがとう、虎哥」  そう言って十二は料理を食べ始める。お粥を頬張り、頼んだ料理に箸を伸ばす。俺も料理を食べながらときどき十二の器に料理をのせてやる。頬を膨らませたまま十二は顔を上げて目を細め、再び料理を食べていく。食欲旺盛でいい。これなら廟街に来るまでに薬物のせいで満足に食べられなかった分も、すぐに取り戻せる。  すべての料理がほとんどなくなったところで、蛋撻が運ばれてきた。十二は目を大きく開いて食い入るように見ている。以前、十二が九龍城砦にいたときに、俺が土産として持って行ったのを食べてからここの蛋撻が好物になったと話していた。 「他に何か甘いものを食べるか?」 「お腹いっぱい。大丈夫」  そう言って十二は蛋撻を取って、齧った。頬が緩んだ顔は何度見ても飽きない。こんなにいい顔をして食べるのなら、もっと食べさせてやりたくなる。皿に残っている蛋撻を取り、蛋撻を食べきった十二に向かって差し出す。 「もう一つ食べてもいい」 「それは虎哥の分だから、食べない」  一瞬、嬉しいと目を大きくしかけて、すぐに首を振った。食べたい気持ちを抑えているのか俯いてしまう。 「俺も腹がいっぱいだ。一口だけでも手伝ってくれないか」  ちらりと窺い見てくる十二に首を傾げると、おずおずと顔を上げてくる。小さく開いた口に蛋撻を差し出すと、恭しげに一口齧った。 「おいしいか」  大きく頷く十二によかったと口が笑う。阿風が俺と十二を初めて会わせて、子どもを引き取らないかと聞いてきたときには、自分がこうやって笑うとは想像すら及ばなかった。子どもとはすごいものだ。いるだけで、呆気なく大人を変えてしまう。俺は残った蛋撻を頬張りながら、片手を十二の顎に添えた。口の端に残ったタルト生地の細かいかけらを親指で拭ってやる。すると、十二は少し頬を赤くさせながらも大人しく顔を上げて拭わせてくれる。その間に蛋撻を食べ終わる。 「俺と二人きりか、家では構わないが、外で誰かと食べるときは気をつけなさい」 「うん」 「行儀がよくなってきたが、なかなかこれは変わらないな。だが、俺以外の人の前でやらなければいい」  外で俺が十二の口元を拭うのを見られでもしたら、古くからの友人、知人にはよほど子育てを気に入ったらしいなとからかわれる。そういう揶揄を十二との記憶にあまり入れたくない。 「分かった。気をつける」 「それでいい。帰ろう」  立ち上がると、十二も立ち上がってついてくる。  そして、来たときと同じように上着の裾を掴む。会計をして店を出てからもずっと上着を掴んでいる。十二は誰かと外に出ると、手か腕、服の裾を掴んでくる。迷子になるのが怖いのか、置いていかれるのを無意識で避けているのだろう。それでも、一人で黙ってどこかに行ってしまうよりはよほどいい。もしも十二が大人になってもこの癖が変わらないままなら、服の裾が伸びてしまうと俺や手下たちはときどき冗談を言いつつも、十二の好きにさせている。  少し前までは手や腕を握ってくることが多かったが、最近は服の裾を掴むことが増えた。細い道を歩きながら、俺は十二へ手を差し出す。たちまち、飛びつくように手を握ってくる。 「手をつなぐことが減ったが、上着の裾の方が掴みやすいのか?」  好奇心で聞いてみると、恥ずかしかったのか十二は何度も首を横にした。皮肉か、からかいに聞こえたか。へまをした自分の口元を手で覆い、溜め息を隠しながら髭を撫でる。 「違う。前に、兄貴たちの手を握ってたとき、もし危ないことや喧嘩に巻き込まれたら、すぐ守れなくて危ないからって。服の裾ならいいって言われた」 「そうか。それはすまなかった」 「俺こそ、ごめんなさい。こういうのは、子どもっぽいって分かってる。けど、誰かの傍にいたい」  子どもっぽいのではなく、お前は子どもだろうと言いそうになって再び口を押さえた。貧しい環境では、十三歳ともなれば、親代わりに下の兄弟の面倒を見て、働くために外に出て行ったりしているのが当たり前だ。特に九龍城砦では、多くの幼い子どもが働いている。十三歳はもう大人になったようなもので、十二が自分をもう子どもではないと考えていても不思議ではない。 「子どもっぽいとしても、迷子になるか、攫われるよりずっといい。だが、相手が俺だったら上着の裾ではなく、手を握ればいい」 「邪魔じゃない?」 「どうして邪魔になる? 危ないときは手下に守ってもらう。二人きりのときは、安全なときだけだ。手を握っていても問題ない」  むしろ十二の方が俺を邪魔だと、いつかは手を振り払ってどこかに行ってしまうのに。子どもとは、若者とは、そういうものだ。大人たちの傍にいたいと言ってくれるのは、今だけだ。さして遠くないうちに、同じ年頃の子ども同士で遊ぶ方が楽しくなり、大人は小言や説教ばかりでうるさいと疎ましく思う日が来る。  その日はもうしばらく遠いと嬉しいものだ。小さい手を握り返す。すると、十二はもう片腕で俺の腕を掴んでしがみついてきた。 「龍哥にはこういうの、できなかった。嬉しい」 「今はいくらでもしていい。こんなことでよければ」  腕に擦り寄せられた頭が頷く。今にも鼻歌を歌い出しそうなほど、十二の足取りは軽かった。  家に帰ってからは帳簿の確認や、手下たちが管理している店や土地に関わる書類を見直していた。金に関わる事柄を主に管理させている手下もいるが、俺も一通りは把握しておかなければならない。細々した書類の確認、ややこしい利権の問題、細かな数字の管理がどうにも苦手で、若い頃には阿風と阿秋に任せきりにしていたつけが今になってきている。一人でもできるが、苦手な事務処理を阿風と阿秋に押しつけていたときと比べると、どうしても時間がかかってしまう。そのせいで後回しにすることも多かった。だが、十二が廟街に来てからは、俺はなるべく家にいて、外で片付ける必要のある用事は手下に頼んでいる。十二の離脱症状も軽くなってきてずっと見守る必要もなくなり、家にいる俺がすることは必然と決まってくる。溜まっていた書類の片付けだ。  十二が来てから、俺が書類を片付けるのが早くなったと手下たちは喜んでいる。しかし、その喜びようも今となってはよく分かる。今まで書類に手をつけるのが遅くて悪かったと、自分で反省するほど毎日なくならない書類に目を通しているからだ。  庭を見渡せる日当たりのいい部屋で、大きな机に向かって大量に積まれた書類を取り出し、目を通し、必要があれば署名をし、忘れないようメモを取りつつ、処理済みの書類の山に加えていく。慣れれば単純な仕事だが、頭を使う。気が進まない仕事だが仕方ない。今日も大人しくやるかと、まだ目を通していない封筒を手に取る。後ろでは扉が開く音がして、足音が近づいてくる。俺が座っている長椅子に誰かがそっと座ってくる気配がする。  横を見ると、シールが貼られた問題集と文房具を抱えた十二が座っている。ちょうど広げられたノートの表紙にもたくさんのシールが貼られている。十二が使うほとんどの物には、今までこの子が集めていたシールが貼られている。帳簿にもシールが貼られているものが何冊かある。十二がシールを貼りたいとねだってきたのだ。いつの間にかこの子の痕跡が身の回りに増えていくのは、意外と楽しいものだ。  最近ではシールを見つけると、十二がシールで遊ぶ姿を思い浮かべて、また買ってやりたいと思ってしまう。  今日は教師代わりの手下がいない。だからか、十二は一人で勉強するつもりだ。勉強する場所に、あえて俺の隣を選ばなくてもいいものを。変わった子だと、にやりと笑ってしまう。問題集を広げる十二の横で、仕事を放っておけない。俺も封筒から書類を出して目を通していく。しばらく集中して書類に目を通していると、上着の裾を引っ張られた。 「虎哥、この問題、教えて」  隣にいる十二を見ると、問題集の最後の問題を指さしている。基本的な四則演算だが、掛け算と割り算に足し算と引き算が組み合わさった複雑な問題だ。 「他は分かったか」 「うん。でも、これはどれを先に計算したらいいか分からない」 「覚えれば簡単だが、それまでが難しいな」  俺は十二から鉛筆を受け取って計算の仕方を教える。説明に何度も頷いて一緒に問題を解いた十二は答えを書きつけて、できたと嬉しそうに顔を上げた。 「これで全部できた」 「答え合わせもしてやる」 「ありがとう」  仕事の息抜きにちょうどいいと問題の答え合わせをしてやる。退屈な仕事よりもよほど楽しい。隣では十二が手持ち無沙汰なのか脚を振って、鉛筆をいじっている。 「全部正解だ。よくできたな」  問題集を返して頭を撫でてやる。すると、十二は頷いてはにかんだ。 「この前、九龍城砦に連れて行ってもらったとき、一日泊まったから、信一に勉強を教えてもらった」 「いい友達だな。九龍城砦で信一といる方が勉強が捗るなら、龍哥に相談してもっと連れて行ってやろう」  信一とも遊べる。喜ぶはずだと思っていたが、予想とは裏腹に十二は困ったように目を伏せてしまう。 「信一に勉強を教えてもらうのも好きだけど、……俺、虎哥と一緒にいられるならここで勉強したい」  その返事に、俺は合点がいった。家には何人かの手下が護衛としていつもいる。別に俺の傍にいろと十二に言い聞かせて従わせたこともない。手下に頼んで遊んでもらうか、外に連れて行ってもらって駄菓子や玩具を買ってくるのもいい。一人で昼寝をしたいのなら自室にいてもいい。  それにもかかわらず、俺がこうして事務仕事をしているといつからか隣に来て勉強するようになった。その理由がようやく分かった。 「俺の隣で勉強が捗るか? 一人で部屋でやった方がいいんじゃないか」 「そんなことない。一人は寂しい。みんながどこかに行って、帰ってこなかったらどうしようって思う。九龍城砦はいつも誰かがいたけど」  俺がいるせいで何かしら圧力を感じさせていないかと心配したが、杞憂だった。むしろ十二は不安そうに俺の上着の裾を摘み、心細そうに引っ張りながら答えた。 「そうか。龍哥から、子どもは大きくなると親や周りの大人から離れたがると聞いていた。俺がいては負担かと気がかりだった。お前の好きにしなさい」  阿風には子育てについて、十二を引き取る前にいろいろと聞いている。子どもが大きくなると大人から離れたがる、親よりも友達といたがるか、一人で過ごす時間が増える。それが世間一般の傾向だと。信一や十二を見ているとこの子たちは少しその傾向から外れているのかもしれないと感じる。二人とも育ての親である阿風と俺からなかなか離れたがらず、疎ましがって避ける兆候すら未だにない。俺と阿風は何か子育てを間違っているか、親が子離れできていないのでは。そんな懸念が頭を過ぎる。時間があれば阿風に相談してみるか。 「虎哥、まだここにいていい? 勉強を教えてほしい」 「信一みたいにうまく教えられるか分からないが、構わない」 「ありがとう」 「だが、今日は勉強する日じゃない。もう少しやったら外で遊んで来てもいい。俺はずっと仕事だ。勉強ばかりだと退屈しないか」 「退屈しない。虎哥といると楽しい」  丸い大きな目が無邪気に俺を見つめてくる。そう言われると、外で好きに遊んで来いとは言えなかった。頷き返して、また書類に目を通していく。書類に目を通す合間に、十二の質問に答え、問題の答え合わせをしてやる。書類に集中していると、いつの間にか十二が茶を淹れて持ってきてくれたり、手下からもらったらしい落花生や飴を分けてくれたりする。  こんなに気を遣わなくていい。九龍城砦に行って信一と遊んで帰ってきたときも、手下に外に連れ出してもらってどこかに行ってきたときも、自分がもらうか、渡した小遣いで買ったお菓子を俺に分けてくれる。もらうたび、これはお前のものだ、自分で食べなさいと言うのだが、十二はいつもおいしかったから食べてほしいと渡してくる。自分のものは独り占めしていい。自由気ままに振る舞えばいい。  しかし、この子にとって一番好きにやった結果、俺に渡しているというのが、表情や軽やかな足取り、躊躇いなく何かを渡してくる手つきで容易く理解できる。困ったものだと思いながらも、気遣いが嬉しいと口元は緩んでしまう。落花生の殻を割って中身を十二に差し出すと、素直に口を開ける。十二がくれたお菓子を食べると、おいしい? と答えを待ち遠しいそうに尋ねてくる。こうした何気ないやり取りは存外に心地よく、もしも十二が大きくなって俺から離れて友達と遊びに行くことが多くなれば寂しくなると予感させる。  ただ、親にとってはその寂しさが最も必要だと分かっている。遅かれ早かれ、大きくなった子どもは親元から離れて自立するべきだ。外の世界でいろんな人を知って、どこにでも好きに行けばいい。それが最もいい。なぜなら、それは俺が最も好む自由というものだからだ。  考え事をしながら悪くない調子で書類を片付けていると、眠たげに欠伸をする十二が視界の端に見えた。ちらりと目をやると、十二は目元を擦って眠気を拭っているようだった。 「昼寝してくるか? 眠たいなら自分の部屋に行きなさい」 「眠くない。まだ勉強する」 「昼を食べる頃には起こしてやる。ここで寝ると体が痛くなるぞ」  細められた目は今にも閉じてしまいそうで、明らかに睡魔に襲われている。だが、十二は髪が揺れる勢いで大きく首を振った。 「やだ。虎哥といる」  眠いせいかいつもよりたどたどしくなった言葉遣いは、とても子どもらしい。どこか舌たらずで、意地を張っている。素直に甘えてくれているなと嬉しくなる。以前の十二なら、少しでも甘えたら怒られないかと怯えて我儘など言ってくれなかった。 「分かった。ここで寝てもいい。昼になったら起こす」  すると、緩やかに十二は首を振るのをやめて満足げに微笑んだ。そして、持っていた鉛筆を机に置き、俺にもたれかかりながら体勢を崩して椅子に寝そべっていく。俺の腿に頭をのせた十二は、長椅子で背中を丸めて目を閉じた。前にこうやって昼寝したときと比べると少し重くなった。俺の腹に顔を向けて額を押しつけ、両手で上着の裾を握りしめている。  仕事の手をとめる。そっと髪を撫でる。くせのかかった髪が指に絡む感覚は柔らかく、ずっと撫でていたくなる。 「ありがとう、……父さん」 「おやすみ。十二」  二人きりでいると、十二は俺を父さんと呼んでくれるようになった。親として信頼してもらえるとくすぐったくも嬉しい気持ちになる一方で、そう呼ばせているようで心苦しくもある。そう呼ぶ必要はないからだ。呼びたいのならば呼べばいいが、俺を親と思わなくともいい。懐かれたくて、この子を引き取ったわけではない。  撫でているうちに寝息が聞こえてくる。こうやって眠る姿は人に懐いた猫にそっくりだ。懐いて甘える様子はかわいらしいが、外で生きる強かさを奪い取ってしまったのではないかと漠然とした不安や後悔が心のどこかにわだかまっている。  いや、この人懐っこさや寂しがりで甘えん坊な気質はきっと十二が本来持っていたものだ。親から縁を切られて、薬物に手を出して、阿風に助けられるまで頼れる相手がいなかったこの子は、本来の甘えたがりな気質を押さえ込まれていたのだろう。人の顔色を窺っていかに暴力を振るわれないか、大人たちの機嫌を損ねないか。そんなことばかりを気にして生きざるを得なかったのだ。そう考えて、わだかまりに目を瞑る。  これから十二はどのような顔や振舞いを見せてくれるだろうか。できるだけ、彼本来の表情をしてほしいものだ。  俺は他人の顔色を窺い、自分で何も決められない者が好きではない。他人など二の次で、自分がやりたいことをして、自由気ままに、好奇心が赴くままに好きにすればいい。人はどれだけ他人のために生きようとしても、巡り巡って自分のもとに戻ってくる。すべて他人のために生きるなど不可能だ。それならば、いっそ自分のために生きる傲慢さをずっと携えて好きに生きればいい。いくら好き勝手に生きていようが、巡り巡っていつの間にか他人のためになっていることもある。  この子はきっと阿風や俺に助けられたと思っているが、俺たちは助けてやったなどと思っていやしない。ただ、自分のために助けたかっただけだ。十二を助けたときの阿風の本心こそ分からないが、十二を見つけた信一が悲しむだろうだとか、九龍城砦が成り立つまでの因果で多くの人々が傷ついた過去への贖罪だとか。救いたいという善意以外があったはずだ。  俺も阿風と似たようなものだ。子ども一人助けられないようでは、かつて喪った仲間や手下たちへ顔向けができないと思っていた。十二が知らない誰かの死や苦しみがあったからこそ、俺はこの子を引き取った。黒社会のせいで大切な者を亡くし、悲しみに暮れる誰かを見て見ぬ振りをして、今まで生きてきた。この世界で苦しむ者たち全員に目を向け、手を伸ばすには、時間も金も、人の手も何もかもが足りない。  だから、諦め、切り捨ててきた。世話を見きれないのならば、中途半端な希望をちらつかせるより、潔く見捨てる方がいい。  そのくせ、誰も彼もを見捨てる非情さもなく、俺はこの子を引き取った。  脚の上から伝わる体温と、穏やかな寝息が愛おしい。  俺は身勝手に望んで手に入れたと思っているが、この子を引き取ることで、本当は何かしらの罪を拭いたかったのではないか。  その疑問を否定できない。  ただ、この子に負わせるものではない。  十二は俺の葛藤や後悔を知らなくていい。こんなつまらないもの、子どもは知らずに生きてほしい。  この子は、いったいどこで生きていくのだろうか。  まだ先のことを考えてしまう。不安だからだ。俺のせいで黒社会に巻き込んでしまわないかと、十二を引き取ると決めた日からずっと悩んでいる。  しかし、不安よりも遥かに、この子が大きくなって独り立ちして生きていく日が楽しみだった。どんな仕事をしたいのか、どんな友人ができるのか、どこで暮らしていくのか、大人になったらどんな笑い方をするのか。  机に置かれた、十二が持ってきた飴を口にする。甘い。この子が好きな味だ。  先のことは誰にも分からないが、俺の不安は呆気なく裏切られ、十二はsとした青年になって生きていくに違いない。楽観的に考えればいい。これからのことなど誰にも分からない。ならば、悲観して考えても意味はない。無駄な迷いに捕らわれるのは俺らしくない。  前へと進む足を迷わせる悩みや葛藤など、噛み切って断ってしまえ。そして、ただ今を見据えて生きればいい。  今は、そうして生きていたい。その理由はすぐ傍にいる。  かすかな寝息に耳を澄ませる。十二が俺の傍にいたいと望むように、俺もできるだけ傍にいてやりたかった。






公開:2026年10月4日

更新:2026年10月4日

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