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虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ

『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。) 「廟街の虎はある仔をのぞむ」(書下ろし)    四  車が街中を通り抜けると、都市の中心部にそぐわない空いた土地が見えてくる。そこには遠目からも巨大で、崩れなければいいと箱を積んでいったような形をした建造物がある。朝の時間帯で道路は行き交う車で混雑し、車道の脇の道も多くの人が忙しそうに歩いている。  車は空いた土地に進んでいく。がたがたと揺れが伝わり、舗装されていない地面の無遠慮な主張が続く。巨大な建物の近くで車が停められた。車から降りる。運転手に帰るときは連絡をする、廟街に戻って待っていろと伝えた。砂と埃、車の排気ガスの匂いが入り混じった空気を押し退けて歩いていく。中に入って、過去に阿風が教えてくれた理髪店までに通じる通路の中でも、なるべく人の気配のない道を選んだ。  ここにいる住民たちにも俺の顔を知っている者がいる。来ていると気がつくと、畏まって挨拶をするか、頭を下げられて、居心地がいいものではない。特に、今の俺は仕事ではなく、単なる友人付き合いでここに来ているだけだ。周囲に気を遣わせて偉ぶりたくはない。  若かった頃よりも幾分丸くなって大人になったつもりでいたが、自分の立場に甘んじて、相手が気遣う態度を受け取れないのは、大人として未熟なのかもしれない。  階段を上がると、理髪店がある通路に出た。店の前では阿風が立っていて、俺に気がつくと口元を緩めて近づいてきた。吸っている煙草が口の動きでわずかに持ち上がり、流れる煙の形が変わる。 「久しぶりだな」  通路に反響した阿風の声は、少し離れただけで音がぼやけて言葉の輪郭がなくなりそうなほど抑えられている。誰にも聞かれたくない話のようだ。合わせて、俺も声を潜める。 「大袈裟だな。三日前に来たばかりだ」 「いや、あの子にとってはそうじゃない。阿虎が来ると知ってから今日まで、ずっとそわそわしていた」 「俺を怖がっているんじゃないか」  煙草を取り出すと、ライターが差し出される。火をつけてもらい、深く吸った。 「謙遜はやめろ」 「事実だ。怖がられたことはあっても、子どもに懐かれたことはない」 「じゃあ、その事実が変わるな。先日、お前が帰ってからも、十二は虎哥の話をするか、俺に虎哥の昔話を話してほしいとせがんできた。ずいぶん懐いていると言ってもいいだろ? それで、あの子はどうだ?」  煙を吐き出す。通路には紫煙が漂い、溜まっている。どうするか考えていたが、口は言っていいのか? とわずかに臆している。くだらない、煙を吐ききった。 「いい子だ。……迷っている。考えてみたが、俺が引き取るのを躊躇うくらいにいい子だ。黒社会に関係のない、信頼できる引き取り手を探すのなら手伝ってやる」 「阿虎が気に入ると思っていたが、気に入り過ぎたか」 「そうだな。俺の見通しが甘かった。大人の世話をするならともかく、自分が子どもをまっとうに育てられるとは、とても思えない。悪いが、俺は、お前のようにできた人間じゃない」 「そう言うが、俺だって信一を引き取ったとき、迷っていた。今でもあのときの選択がよかったのか悩んでいる」  通路の端にあった大きな缶に、阿風は短くなった煙草を放り込む。 「結局は、理屈じゃないんだろうな。運というか、天のような、説明できない何かがあるのかもしれない。迷っている背中を押す何かが」 「そのきっかけがなかったとしても、あの子どもに悪いところはない。俺が悪い。子ども一人を育てる覚悟すらない腰抜けだった」 「あまり自分を悪く言うな。俺としても、友人が貶されるのを聞くのは、気分がいいものじゃない。今日はせっかく来てくれたんだ。あの子に会ってくれるだろ?」  俺も缶に煙草を放り込んで、店の方へと踏み出す。 「あの子どもを引き取れないが、困ったときは俺を呼べ。できるだけ手を貸す」 「助かるな。何かあれば、遠慮なく呼ばせてもらおう」  阿風は店の扉を開けて、先に入れと手で示す。俺が入ると、ちょうど十二が店の奥から走ってきた。追いつくように信一も現れて、俺に頭を下げた。 「龍哥、おかえりなさい。虎哥も久しぶりです」 「ほら、信一、俺が言った通りだ。来たのは虎哥だって、あってただろ」 「十二、嬉しいのは分かるけど、無理をしたらだめだ。昨日も、少し具合が悪かったのに」 「よく寝たら元気になった。信一、大丈夫だ」  心配そうに十二の服の裾を引っ張る信一とは対照的に、十二は胸を張って得意げな顔をしている。 「虎哥、信一が昨日ずっと傍にいて看てくれたおかげで、元気になったんです。心配しないで、もうすっかり元気です」  信一と一緒にいられたのが嬉しかったのか、十二は目を細めて話してくれる。その隣にいる信一は、そんなことを話されるとは思いもしていなかったのか、恥ずかしそうに視線を落とす。 「そうか。元気になってよかった。信一もよく頑張ったな。これは土産だ。廟街にある店の蛋 撻(エッグタルト)だ」  十二の肩を撫で、土産の入った紙袋を渡す。 「ありがとうございます、虎哥。いい匂いがする」 「そうだろう。前に、信一もおいしいと言っていた」 「ありがとうございます、また食べられて嬉しいです。十二、この蛋撻、すごくおいしいんだ」 「なんで信一は知ってるの?」  疑問にわずかな羨む気持ちが滲んだのか、十二は目元を曇らせた。ずるいと言わなかっただけでも、子どもにしてはよく自分を律している。できるだけ感情を控えめにした顔つきも、歳の割にうまくできている。  しかし、大人からすれば、どんなことを感じたか手に取るように分かる表情で、俺はついほほえましいと思っていた。 「龍哥が仕事で九龍城砦にいなかった間、僕は虎哥のところに行って泊めてもらったんだ。そのときに、食べさせてもらったんだ」  十二は頷いて、ふうんと言って視線を落とす。視線の先の足が履いているのは真新しい靴だ。信一の履いているものと色違いの同じものだ。おそらく自分では選べず、誰かが代わりに選んで買ってきたものなのだろう。この子どもは自分だけのもの、自分に向き合ってくれる誰かが欲しいのだと素振りで察せられた。  信一は幼い頃から阿風がいる。阿風にとっても信一が先にいて、あとから来た十二の世話を見ている。ようやく俺が現れたのに、かつて信一の世話を見ていたと知って気分がいいわけがない。つまらないはずだ。自分にだけの特別な誰か、向き合ってくれる親のような相手がいない。助けてくれた大人も、友人もいるが、既に関係ができあがっている。 「しまった、煙草を切れている。阿風、来たばかりだが煙草を買いに行く。十二、よかったら一緒に来てくれないか?」  突然呼ばれた子どもは慌てて顔を上げる。 「どうして? 俺、虎哥の邪魔になると思います」 「昔は俺もよくここに来たが、もう道を忘れてしまった。それにここはいつもどこかが変わっていっている。だから、道案内を頼みたい」  十二は目を丸くし、信一と阿風へ視線を交互に向けて、行ってもいいかと窺っている。自分の後ろにいる阿風がわずかに笑う息遣いが聞こえる。振り向いて睨みつけてやりたかったが、そうする前に十二が頷いて、一歩前に出た。 「うまく案内できるか分からないけど、一緒に行きます」 「ありがとう。頼んだ」 「二人が出かけるなら、俺は信一と昼を買ってくる。虎哥も食べていくだろう?」 「ああ。今日は特に予定もない。ゆっくりさせてもらおう」  阿風に答えて、傍で待っている十二に向いて頷いた。緊張した面持ちをしながらも十二は先に理髪店を出ていく。歩いていく道は、前に阿風の煙草を買いに行ったときと同じだ。 「今から行くのは前にも行った店か?」 「うん。あの店は近所でも、煙草の品揃えがいいって龍哥が言ってた」 「そうか。詳しいな」 「でも、虎哥の方が知ってると思います」 「俺が知っているのは、昔の九龍城砦だけだ。前はよくここに来たが、今は複雑に入り組んでいて難しい」  ちらちらとこちらを振り返りながら話す十二は、やはり俺の右側を歩いている。その背中に手をあてた。 「危ない、転ぶぞ。前を見なさい」 「ごめんなさい。虎哥がかっこいいから……」  十二は慌てて前を向く。変わっている。俺がかっこいいとは。手下や黒社会の連中はともかく、こんな子どもに面と向かって言われるのは初めてで、さすがに落ち着かなかった。いや、この子どもに言われて、自分でも照れくさいのだ。傾きかけた好ましいという感情を均(なら)すために、俺みたいなやつはこの子どもに相応しくないと頭で繰り返す。 「あの、前にもらったお土産、おいしかったです」 「口に合ってよかった。どれが好きだった」 「全部。どれもおいしかったから選べなくて」  振り向いた十二は、はにかんでいる。 「またここに来る用事があれば、持ってくる」 「ありがとうございます。あ、あの店」  十二は俺の上着の裾を引っ張って、商店を指差す。 「ありがとう」  引っ張られるままついていくと、得意げに目を細めた。新しい煙草を買う。懐にある開封済みの煙草を取り出さないよう気をつけなければ。 「十二。何か欲しいものはないか? 案内してくれた礼に買ってやる」 「いらない、大丈夫です。今日もお土産をもらったのに」 「それなら、俺が適当に買ってしまうぞ。使う金に変わりない。お前か俺が選ぶだけの違いだ」  首を横にしかけた十二は服の裾を摘んで黙っていたが、背中に手をあてて待っていると、やっと店のお菓子や玩具に手を伸ばし始める。チョコレートとジュース、飴で迷っていたが、飴を一つ取った。一つだけでいいのかと口を挟みかけたが、彼の目線があるものに向いていることに気がついた。 「虎哥、あれもいい?」 「どれだ」 「あのシール」  指差された先にある動物のシールがまとめられた袋を取って、これでいいかと十二に向けた。頷き返す十二に、俺は金を払った。  買ったシールを十二に渡す。十二は目を大きく開いて受け取った。 「ありがとう、えっと、ありがとうございます」 「シールが好きなのか?」  子どもはシールで遊ぶのが好きとよく聞くが、十二もそうなのだろうか。まだ信一が幼い頃、阿風が信一を遊ばせるためにシールを渡したら、店のあちこちに貼って大変だったと嬉しそうに話していたのを思い出す。子どもは大人が想像できないことをしでかして困ったと阿風は言っていたが、剥がすのは忍びなかったようで、未だに店の棚や壁には当時信一が貼ったシールが未だにそのままになっている。 「うん。龍哥がよくシールをくれるんだ。俺は帰るところも、服とか、お金もないけど、シールで自分のものとか、場所に目印をして、自分の大切なものや居場所を増やしなさいって。龍哥の教えてくれることは難しくてよく分かってないけど、シールを貼ったところは俺のものとか、場所で、好きにしてもいいんだって嬉しくなる」 「いつか龍哥の話の意味が分かる。動物が好きか」  店から少し離れた場所で、買ったばかりの煙草に火をつける。十二も飴を食べながら、シールを俺の方に向けた。 「これ、虎のシールが欲しかった」  袋の中でも表の方にあって、見えたシールを指さして教えてくれる。 「せっかく虎哥と会えたから、記念にする。虎で一緒だ」 「それくらい、またここに来て買ってやる。他に欲しいものはなかったか」 「そんなにいらないです。龍哥はあんまり他人に甘えすぎたらだめだって」  甘える、甘えていない。その境界線を踏み越えないよう、十二は自分がしたいことを我慢しているように見えた。まだ子どもだ。多少甘えてほしいものだが。しかし、頼れる親も保護者もおらず、薬物中毒で苦しんでいようが阿風たちに助けられるまで放っておかれていた境遇を考えれば、仕方がないか。 「そろそろ帰ろう。遅くなると龍哥たちが心配する」 「うん。虎哥、ありがとう」  もう礼を言わなくてもいいと思ったが、シールを大切そうに持って無邪気に笑いかけてくる十二に曖昧に頷き返し、来た道を戻っていく。十二はやはり俺の右側、少し前を歩く。頼まれた道案内役を律儀に務めている。  まだ小柄で、背丈は俺の胸元程度の少年だが心強い。どんなに実力があろうと、媚びへつらって己の能力を誇示できる機会を窺う者たちがまとわりついてくるより、気が楽で好ましい。  もしも俺がまっとうな方法で金を稼ぎ、黒社会と縁がなければ引き取っていた。そんな理想をつい想像しかけた。だが、自分が黒社会以外でどう生きているかまったく思い浮かべられなかった。そんなことすら想像できないなんて、嫌な大人だと掠れた笑いが出た。 「そこの子、いいものがあるぞ」  突然、声が聞こえた。ぴたりと十二が足をとめた。そこは通路の途中で、壁が開いていて階段に通じている。階段を上がると踊り場があり、よく薬物中毒者がいる。そこで嗅ぐ薬物と黴っぽい匂いにどうにも嫌気が差して、通るのをやめてしまった。俺からは死角になって見えないが、前を歩いていた十二は通路の先が見えている。気にするなと声をかけようとしたとき、階段の方から大人の腕が出てくる。男の腕だ。  十二は後退る。眉間を寄せて険しい顔つきをしている。男の方に向き、軽く背中が丸まっている。警戒している。  男の手には、白い粉が入った小さなビニール袋があった。 「金はいらない。使い方を教えてやる」  粘ついた男の声に、阿風が手を尽くしてもこういったあくどい輩はいなくならないのかと溜め息をつきかける。まるでいくら追い払おうが、延々とわいてくる蛆や蝿のようだ。俺が一歩前に出かけると、十二は首を大きく振った。細い腕で、俺を後ろに押し返そうとする。 「そこにいて! 危ないから」 「そこにいるのは、お父さんか、お母さんか? それともお友達がいるのか? 二人分やろう」  男が通路に出てきた。俺を一瞥もせず、十二へとにじり寄る姿は蛇を思わせる。身なりは悪くないが、目が嫌らしく細められていて得体が知れない。  この男をとめなければ。子どもは守らなければならない。  十二の腕を掴んで俺の傍に引き寄せようとした。しかし、俺が細い腕を掴む前に、十二は男が差し出した袋を鋭く振り払った。粉の入った袋が床に落ちる。 「こんなもの売るな! 龍哥がだめだって言ってるんだ」  大きな声を上げるなり、十二は飛びつくように袋を踏みつける。男が引き攣った無様な声を出す。袋は破けて床に粉が広がった。 「このガキ、何しやがる! 下手に出たらつけ上がりやがって、ふざけるな!」  男が腕を振り上げた。筋肉のつきが悪い細い腕で、腰も入っていない。いいのは、勢いだけだ。十二は背中を伸ばし相手を見上げたまま、その場を動かない。  動けないのではない。戦おうとしている。俺を守るように。一目で分かった。  目をしっかりと開き、相手を睨みつけている。  わずかでも、視線をそらしたらやられる。  本能、戦意、意地、覚悟、思慮。それらが爛々と光っている。  いい眼差しだ。  口元が緩む。  分かった、諦めよう。  俺はこの子どもが欲しい。気に入っている。  十二の前へと、素早く一歩出る。男の腕を掴む。振り上げられ、今にも振り下ろされようとしていた腕の勢いを利用し、強引に下ろさせる。これでもう、十二に手出しできない。 「痛えっ……何だてめえ! 誰だか知らねえが許さねえぞ!」 「この子は、俺の子だ。お前たちこそ、よくも好きにしてくれたな」  いつの間にか口をついて出た言葉に、にやりと口元が笑う。  俺の子、か。  烏滸(おこ)がましく、身勝手極まりない。  しかし、俺らしい。  言ってみていい気分だった。清々しい。もっと早く言うべきだった。  突然現れた俺に虚をつかれたのか、嗄れた声が聞き取れずに戸惑っているのか、俺が誰かを察したのか知らないが、男はぎょっと目を見開いて、卑屈な笑みを辛うじて浮かべた。口元は糸で吊られたように持ち上がり、目は動き回ってどこかに逃げ道がないかと卑しく言い訳を探している。 「あの、もうしない、しません。だから、見逃してくれ」  そう言いながら、男は掴まれていない腕をそろそろと腰へと伸ばし、何かを取ろうとしている。どうせ武器か、何か碌でもないものを持っているのだろう。  身の程知らずだ。俺に危害が及べば手下たちが黙っていないのを知らないのか。警察に捕まえられれば幸運だ。そうでもなければ、この世から影もなく消えるか、見せしめに殺されるだけだ。多少運がよければ、殺されはしないだろう。代わりに、生きていることを後悔するくらいに痛めつけられるが。  息を軽く、素早く吸った。  男の腕をぐいと思いきり引っ張る。  そのまま短く息を吐き、軽く拳を握る。力はそれほど強く入れなくていい。  流れるような勢いさえあれば、こいつには十分足りる。拳を握ったまま肘を引き、構える。腰を捻り、勢いをつけて腕を振る。その流れにのせた拳を放つ。吸い込まれるように、腹へ突きが入った。 「ぐあっ……!」  男は呻き、ぐらりと体勢を崩す。  掴んでいた腕を離すと、その場に倒れてうずくまった。 「口ほどにもないな」  左目は常にあたりを警戒している。階段の踊り場の方に、もう一人いる。視界の端でさっきから捉えていた。暗がりにいれば、気づかれないとでも思っていたのだろうか。黒社会で生きていきたいのなら、捨てるべき楽観だ。  片手で十二を背後に下げる。  薄暗い踊り場から男が飛び出てくる。久しぶりに戦うせいか、たいした脅威でもない相手に全身の神経が張り詰め、気が昂っている。  後ろで十二が息を飲むかすかな声すら聞こえた。子どもの目の前で戦って怯えさせるなど、あってはならない。あとで謝らなければ。  一瞬、呼吸をとめる。体勢を落とす。  前に体を傾けた。  左肘を曲げる。体重をかけて、男へ肘を突き出す。  男は何が起きるか察したのか、顔を歪めているのが視界の端で見えた。  遅い。これで戦っているつもりか。呆れたものだ。  飛びかかってきた男の鳩尾に肘が食い込む。  そのまま左手を上にする。  手首を軽く動かす。腕に対し、手が垂直になるよう構え直す。  そのまま一気に突き出す。  崩れかける男の顎に掌底が入った。  男は体勢を崩し、その場に倒れた。  顎から頭まで一直線に射抜いた感覚が手のひらにあった。  これでしばらくは大人しくなる。この男二人は戦うことはおろか、逃げることもままならないだろう。体を起こしてあたりを窺う。人が集まってきている。 「誰か龍哥を呼んで、あの人は悪い売人だ」  十二の呼びかけを聞いた何人かが、理髪店へと向かっていく。俺は十二のもとに近づいてしゃがんだ。 「大丈夫か。怪我はないか」 「俺は大丈夫。虎哥は」  十二の丸く大きな目に涙がたまっている。 「俺も大丈夫だ。心配するな。怖い思いをさせてすまなかった」  肩に手を置くと、こくりと頷いて十二は涙を手でごしごしと乱雑に拭った。 「怖くない。虎哥がいたから」  遠くの方から慌ただしい足音が聞こえてきた。硬く、鋭く、こちらに突き進んでくる。一切迷いないこの足音は、阿風だ。立ち上がると同時に、阿風が俺の前にやってきた。 「龍哥、この二人は売人だ。子どもに薬物を渡そうとしていた」 「まだこんな碌でもない連中がいたのか。おい、この二人を連れて行け。売人仲間と薬物をどこで手に入れているか吐かせろ」  阿風は後ろに従えていた手下に手短に指示し、男たちは連れて行かれた。 「虎哥、十二、怪我はないか」 「ああ。だが、十二の前で売人を叩きのめしたせいで怖がらせてしまった。理髪店に戻ってこの子を休ませてもいいか」 「そうだな、あとは俺が片付ける。虎哥も十二も休んでくれ。何かあったら俺の手下に言ってくれ、店の前に何人かいる」  そう言いながら、阿風はいいものを見つけたといわんばかりにほほえんだ。阿虎、お前は十二を、この子と呼ぶのか。そう言いたげに十二をちらりと見た阿風に、俺はわざと口元を持ち上げて応じた。 「龍哥、虎哥。俺、平気だ。心配しないで」  十二は俺の上着の裾を掴んで訴えてくる。それでも、目元はまだ心細そうに曇り、再び浮かんだ涙が今にもこぼれ落ちそうだ。 「今が平気でも、あとで怖かったと気がつくときもある。俺がと一緒に店に戻って、ゆっくり休めばいい」  頬に手のひらをあてて、髪の毛をかき上げるように頭まで撫でてやる。すると、くしゃりと十二は顔を歪めて、堰を切ったように泣き出した。大粒の涙がぽろぽろと溢れて落ちていく。 「ごめん、なさい。ごめんなさい」  しゃくり上げながら泣く十二の肩を撫でる。細い肩で、服越しにも関節や骨の形が伝わってくる。この子が大人に立ち向かうには、とても勇気がいったに違いない。どれほど怖い思いをしたのだろうか。 「謝らなくていい。怖かっただろう。こんな目に遭わせてすまなかった」  こういうとき、どうすればいいか、何が最善なのか。この子のために、俺は何ができるのか。それすらも俺には分からない。ただ、この子にできる最善を信じて動くしかない。十二の背に手を回してそっと抱き寄せる。ずっと怖かった気持ちを押さえていたのだろう。十二は俺にしがみついて、声を上げて泣き始めた。 「虎哥、十二を頼んだ」 「任せろ。十二、歩けるか」  俺の胸元に顔を埋めたまま、十二は頷く。俺が背中に手を添えてそっと撫でると、そろそろと顔を上げる。涙で濡れた目元や頬を拭ってやる。背中を何度かゆっくりと叩いて歩き出すと、十二は俺の上着を強く握りしめたままついてきた。集まってきた人々の隙間を抜けて、俺たちは店へと向かった。ときどき十二がしゃくり上げる声以外は誰の声もない。お互い、何も話さずに歩いた。  店の前には阿風の手下がいて、帰ってきた俺たちを見ると驚いた顔をしていた。店の中で扉越しに外を見ていた信一が、急いで飛び出してくる。 「十二、どうしたの。虎哥、大丈夫ですか」 「大丈夫だ。十二にも俺にも怪我はない」 「よかった。龍哥は僕に、店にいなさいって言って出ていったから、何があったのか気が気でなくて」  店に入ると、信一は自分の部屋を使って、と俺たちを奥の部屋へ連れていってくれた。信一の部屋のベッドに十二と並んで座る。信一も近くにある椅子に座った。阿風が手下を残して急に店を飛び出し、突然店に残された信一は俺たちに何か起きたと察しているようだ。十二と俺を交互に見て、不安そうな顔をしている。俺は二人で出かけたときに、子どもに薬物を渡そうとする売人に会ったこと、十二は薬物を受け取らなかったが売人から手を上げられそうになったため、俺が売人どもを叩きのめしたことを説明した。 「そんなことが……二人とも無事でよかった」 「そうだな、何よりだ。信一、悪いが、しばらく二人だけにさせてほしい。十二が疲れているから休ませたい。部屋を取ってしまって悪いが」 「大丈夫です。僕は龍哥の部屋にいます。店に昼食に買ってきた料理があるから、よかったら食べてください」 「信一はもう食べたか」 「まだです。僕は龍哥が帰ってくるのを待ちたくて」  いつ阿風が帰ってくるか分からないから、待たなくともいい。俺がそう言おうしたのが顔に出ていたのかもしれない。 「大丈夫です、お腹が減って待ちきれなくなったら食べます」  信一は慌ててつけ加えると、立ち上がって部屋を出ていった。 「十二、何か食べるか」  聞くと、十二は俺にもたれかかったまま首を横にする。ここに戻って安心したようで、また涙が頬を伝い落ちている。指で涙を拭っても、またあふれてくる。俺のせいだ。店まで一緒に来てほしいと言わなければ。今日ここに来なければ。十二を傷つけずに済んだ。 「すぐ助けられなくてすまなかった」 「違う、虎哥は悪くない。ごめんなさい」 「どうして謝る。俺を守ろうとしてくれたんだろう」  弱々しい頷きが返ってくる。怖がっているのか、しがみついてきた。 「したけど、守れなかった。虎哥を危ないことに巻き込んだ。……虎哥は強いから、俺は邪魔だった。いない方がよかった」  傷つけた俺が、この小さな体に触れていいものかと迷う。だが、今のこの子に必要なのは、思いやりで距離を取ってやって、一人にさせることではないのだろう。誰かに傍にいてほしい、守ってくれる誰かが欲しい。そんな単純な十二の願望に今だけでも応えることが、必要だ。  薄い背中に腕を回して抱きかかえる。軽い体に、よく食べられているか、夜は眠れているかと聞きたくなる。膝に十二をのせて軽く抱きしめた。十二は顔を上げる。視線を落とすと、目を丸くしているのが見えた。 「危ないことを片付けるのが大人の仕事だ。邪魔になったなんて、会ってから一度も思っていない。それに、お前が守ろうとしてくれたことが嬉しかった。ありがとう、十二」 「でも、俺、虎哥に買ってもらったシールを、あのとき握って、折ったんだ。ごめんなさい」  差し出された手には、袋ごと折り目がついたシールがあった。  売人に立ち向かったとき、無意識に握ってしまったのだろう。こんなもの、捨ててしまってもよかった。また買い直せるシールより、自分の身を守ればいいものを。それでも。俺にとっては価値がなくとも、この子にとっては自分より、俺を大切にしたいと思ってくれたのか。 「謝らなくていい。また買ってやる。そんなに大切だったのか」 「うん。だって、虎哥が買ってくれたものだから。あいつらに取られたり、汚されたくなかった。そう思ったら、いつの間にか握りしめてて……ごめんなさい。買ってもらったばかり、なのに」  声が段々と弱々しくなっていった。十二は鼻を鳴らし、また泣きそうだ。 「このシールを大切にしてくれたんだな。だが、俺にとって十二の方が大切だ。だから、もう気にするな。怪我はないな」 「うん。どこも痛くない」  頷いた十二の頬が少しずつ赤くなる。顔を隠すように俺の胸元に顔を埋めた。そして、再び鼻を鳴らして泣き始める。ただ、先ほどとは違う。怯えて体を震わせて泣きじゃくる様子は消えている。やっと緊張や恐怖が緩んだのか、気分を元通りにするために泣いているようだった。  俺に頼るように寄りかかって静かに泣く十二の背中を撫でる。シャツの胸元は涙で濡れて肌にはりつき、熱い体温が伝わってくる。 「俺も、虎哥が守ってくれて嬉しかった。ありがとう」 「礼を言われることじゃない。お前が無事ならいい」 「あいつらをやっつける虎哥はすごくかっこよかった。……また、ここに来る?」 「俺が?」 「うん」 「いつになるか分からないが、用があれば」 「また会いたい」  小さな声が聞こえる。九龍城砦の薄暗い通路に、隙間から差し込む陽射しを思い出した。子どもらしく甘え、頼ってくれているのが分かる、かわいらしい声だ。 「俺もだ」  答えると、かすかに頷いた。そして、寝息が聞こえてきた。どれくらい時間が経っただろう。俺は十二を起こさないようにベッドに横たわらせた。眠っても、片手にはまだシールを握りしめている。頬に残った涙の跡を手のひらで拭い、部屋を出た。店の方に行って窓際で煙草を吸っていると、信一が来た。 「虎哥、十二は大丈夫ですか?」 「部屋で眠っている。疲れていたみたいだ」 「昨日、実はあんまり具合がよくなくて、夜遅くに寝たんです。そのせいかもしれないです」 「信一は、よく十二の世話をしているんだな」 「十二と一緒に寝ているから、当たり前です。友達が困っていたら助けないと」 「さすが龍哥の子だ。優しいな、信一は」 「僕は、龍哥の真似をしてるだけです」  そう答えながらも、はにかんだ。そのとき、扉が開いて阿風が帰ってきた。 「おかえり、龍哥。大丈夫だった?」  信一は駆け寄り、阿風を見つめて尋ねる。 「大丈夫だ。あとは手下たちに任せてきた」 「よかった。十二は寝てるって」 「昼にしようかと思ったが、十二だけ一緒に食べられないのは気が引けるな」 「俺が十二と食べるようにする。龍哥と信一は先に食べたらどうだ」  おや、と阿風は眉を上げた。詳しくはあとで話してやる、と肩を竦め返した。






公開:2026年10月4日

更新:2026年10月4日

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