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虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ

『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。) 「仔の不安を虎は慰む」(書下ろし)    五  久しぶりに茶でも飲まないか。そんな誘いが阿風からあった。都合をつけて、ある日の昼下がりに九龍城砦にまで足を運んでいた。もちろん十二と一緒だ。日中に話したいとあいつが誘ってくるときは、信一と十二を会わせたい、と暗に言っている。  珍しく理髪店は休業の札が扉にかけられていて、いつも多くの人で賑わう店内にいるのは阿風と信一だけだった。 「十二、信一と外で遊んできなさい。小遣いもやる」 「ありがとう、虎哥! 信一、早く行こう!」  訪れた挨拶もそこそこに小遣いを渡すと遊ぶのが待ちきれないのか、十二は信一の手を握ると、そのまま飛び出るような勢いで外へと出て行く。瞬く間に小さくなっていく二人の背中を見ながら、俺と阿風は元気な子たちだと小さく笑い合う。俺は窓際に置かれているソファに座った。煙草を吸っていると、阿風が茶を淹れて来た。向かいに座った阿風に土産の入った紙袋を渡す。 「信一のために持ってきたが、もう外へ遊びに行ってしまったからな。蛋撻と、知り合いからもらった舶来物のお菓子だ。あとで一緒に食べてくれ」 「ありがとう。まったく信一と来たら、挨拶も忘れて遊びに行ってしまった」 「十二が連れて行ってしまったんだ。仕方がない。最近は俺がここに十二をあまり連れてこなかったせいで、はしゃいでいるのも原因だろう。怒らないでやってくれ」 「遊ぶのが楽しみな気持ちは分かるが、礼儀を忘れていい理由にはならない」  ふうと溜め息をついて、阿風は煙草に火をつけた。  煙混じりの溜め息をもう一度つく。どこか刺々しい煙の勢いに、これが俺を呼んだ理由だと察する。 「信一が一四歳になったからか、厳しくなったか?」 「そうだな、あの子もそろそろ大人だ」  あえて笑い返す。大丈夫だ、何に焦っている。俺を呼ぶほどのことか。同じ子を育てる立場として、多少気を利かせてやる。 「いくら信一が大人びていても、まだ一四歳は子どもだ。十二を見てみろ、信一と同い年でも比べると、十二は子どもっぽい。俺に甘えてばかりだ」 「それは仕方がない。十二は一三歳まで、一人だった。周りの子と比べると少し幼いところがある。特に信一は大人びているから、比べてやるな」 「その通りだ、しばらく俺は十二に甘えさせてやるつもりだ。子どもは自然と親離れして、いずれ甘えなくなる。だが、信一を大人扱いするのはまだ早い。あの子たちを大人扱いするのは、もう少し先でもいいだろう」  返答は、深々と吐かれた煙だった。煙って見えにくいが阿風の口が苦々しげに曲げられている。懐かしい。何かに悩んでいるとき、どうにも答えが出せないとき、怒りや悲しみで戸惑っているとき、こういう顔をよくしていた。 「阿虎、十二も大きくなったな。引き取ってもらって、ちょうど一年くらいか」  細く開かれた窓から冬の兆しをまとった風が吹き込む。煙が揺れ、散っていく。  煙が消えたあと、遠くを見るように目を細めて笑う阿風の顔だけが残った。  どうやら阿風は話題を変えたいようだ。先ほどわずかに垣間見えた悩みは、心構えができたら話すつもりだろう。俺は頷き返す。友人だ、付き合ってやる。若かった頃は酒と煙草があれば、用がなくとも下らない話で一晩明かした。今になって信一と十二が戻って来るまで待てないからさっさと話せなど、無粋な催促はしない。穏やかな昼下がりに、似つかわしくない真似が俺は好きではない。そもそも阿風が誰かを頼ることが滅多にない。こいつに頼られるのは長い付き合いの俺か、阿秋にくらいしかできない役目だ。今さらその役目を放り出せない。 「そうだな。去年の今頃に引き取った。今年も、もう冬か。時間が経つのは早い」 「一年か。子どもは成長が早い。久しぶりに会ったら、十二の身長が見違えるほど伸びていて驚いた」 「俺もだ。来年には信一に追いつくかもしれない。前は一〇歳かと間違われることもあったが、今はもうない。薬物の離脱症状もほとんどなくなった。近頃は一人で外に遊びに行ったり、武術の練習をしたり、とにかく元気だ」 「いいことだな。阿虎に引き取ってもらったのは、間違いではなかった」 「そうだといい。お前に言ってもらえると、安心する」  これは嘘や世辞ではない。十二を引き取ったのは誤りではないか、俺のもとに来て悪い影響を与えていないか、ふとしたときに考え込んでしまう。だが、阿風に否定してもらえると気が楽になる。 「十二が元気になったのはいいが、新たな悩みも出てきた。子育ては大変だな」  短くなった煙草を消す。淹れてもらった茶を飲みながら視線を投げると、向こうも分かっていると口端を持ち上げた。 「何が大変だ? 阿虎が大変だとは何事だ」 「俺が夜遅くまで用事で外に出ていると、帰るまで寝ずに待っている。世話をしている手下たちが寝かせようとしてくれるが、先に寝ていたためしがない」 「いつも一緒に寝ているのか」 「いや、普段は別だ。怖い夢を見たとか、具合が悪いときは別だが。それに俺が家で仕事をしていると、外にも行かないで俺の隣で勉強するか、雑誌を読んでいるかで、離れたがらない。子どもはこんなに大人に甘えるものだったか」  どうしたものかと片手持ち上げ、肩を竦めてみる。  その割に、自分のざらついた声に困った調子は出ていない。むしろいつもより抑揚がついていて、上機嫌だと自分でも分かる。しかし、十二が懐いて遠慮なく甘えてくるのが嬉しいなど、とても言えたものではない。上辺だけでも困っている、悩んでいるとしておきたい。阿風もよく俺の気持ちを理解しているのか、そうだなと顎に手をあてて、聞かされた悩みに考え込む素振りをする。 「信一も、少し前まで似たようなものだ。怖い夢を見たと夜中に起きてきて、ときどき俺と寝ていた」 「それでも、ずっとお前と一緒に過ごしているわけではない」 「周りに人がいるとな。店を閉めてお客も手下もいなくなると、用がなくても傍にいる。自分の部屋があるのだから、一人でいる方が落ち着くんじゃないかと思うが」 「まったくだ。俺たちが若い頃は金も住む場所もなくて、一人になれる部屋なんかなかったからな。お前と阿秋と眠っていると、狭苦しくて大変だった」  昔を思い出してつい笑うと、阿風も懐かしいと笑い出す。 「あの頃は本当に苦労した。思い返すと、よく我慢できたと過去の俺たちを褒めてやりたくなる。雨に濡れた日は、服を乾かす場所もなくて散々だったな。どうにか這い上がって、足を伸ばして寝られる部屋を手に入れてやると考えてばかりだった」 「特に、お前の脚のせいで何度起こされたことか」 「お互い様だろ、それは。今になって文句を言ってくるな」  笑いつつも一息ついた阿風は、火のついた煙草を片手に茶を飲む。 「信一も十二も、育ってきた環境が複雑だ。性格や個人の差もあるが、多少甘えがちになっても仕方がないと俺は考えている。それに俺たちとは時代が違う」 「十二を見ているとそう感じる。若い者は時代に合わせて変わっていく。柔軟だ。老いぼれは追いつこうにも敵わない」 「おい、悲観するな。俺が言いたいのは、今は十二に思う存分甘えさせてやってほしい、ということだ。十二は今まで甘えられなかった分、阿虎に甘えたいだけだ。甘えるのを受け入れるのと、依存や執着は違う。適度に距離を保てば、いつか自然と親離れしていく」 「分かっている。だが、俺が十二と接する時間が長いと、落ち着かない。このままでいいのか、分からない」 「このままで、何が悪い?」 「俺は子どもの扱いがうまくない。愛想も悪いうえ、右目も、声もこの様だ。あの子は気に入っているようだが、俺に懐いていいことはない。悪い影響を与えそうだ」  すると、阿風は肩を揺らしてくすくすと笑う。灰が落ちかけた煙草を灰皿に置き、にやりと口元を持ち上げて俺を見つめる。 「どうしてそんなに卑下するんだ? 傍から見ていても、阿虎が十二をかわいがっているのはよく分かる。そうでなければ、あの子があれほど懐くわけがない。いいか、阿虎。子どもは優しい大人に甘えるんだ。怖くて、訳もなく怒る大人にわざわざ近づく子どもがいるか? 子どもに甘えられる大人が、どう悪い影響を与えるんだ?」  言われて、俺も額に手をあてて笑ってしまった。確かにそうだ。怖い相手には怯えるか、媚を売って、怒られまいとぎこちない笑みを浮かべてしまうものだ。どうして十二の無邪気な笑みや、傍にいたがる様子を疑い、不安を覚えてしまったのか。自分の愚かさに呆れて笑うほかない。 「そうだな。十二が懐いてくれていることに不安に思うのはやめよう。悪い、俺が親代わりでいいのかと、やはり心のどこかに悔いがあるせいだ。これでいいのかと、自問自答してしまう」 「俺も同じだ」  阿風は話す決心がついたようだ。俺は新しい煙草に火をつけ、聞こうと頷く。あい分かったと向かいに座った友人は煙草を灰皿で消し、わずかに顔を上げた。  どこか遠くを眺めるように。懐かしいものを探すような、寂しさを紛らわせるような、難しい顔をしている。 「……信一が黒社会に入りたいと言い出した。育て方が悪かったか、そもそも俺が育てたことが間違いだったか。あの子には、好きに生きればいいと常々言っていた。黒社会でなくとも、どこに行っても生きていけるように育てたつもりだった」  かすかに声が震えている。こんな声を聞くのはいつ以来か。  阿秋の妻子が殺されたとき、俺がひどい怪我を負って片目と声を失ったとき、信一を引き取ったときくらいか。平静を辛うじて保っている、張り詰めた声だ。  俺は煙草を差し出す。阿風は煙草を口にした。火をつけてやる。 「俺のせいで、黒社会で生きる以外の道を塞いでしまったんじゃないかと……信一を俺ではない誰かが育てていれば、別の道を選んだはずだ」 「阿風、こんなことを言うのは酷かもしれないが、信一の気持ちも分かる。かつて、俺はお前がいたから共に戦った。お前に育てられた子が、親であるお前に惹かれるのは当然だ」 「そんなことを言うのは阿虎と阿秋くらいだ。どうして俺をそんなに慕うんだ? こんな、死に損ないの俺を」  深い溜め息と同時に煙草の煙が吐き出され、広がった。 「お前こそ、卑下するな。信一以外にも、大勢の手下がお前のもとにいる。理由は分かっているだろう」 「ああ。だが、自分で言うなんて烏滸がましいな。嫌になる」 「謙遜するな。阿風、お前はいいやつだ」 「……いいやつは、あの子をどうすると思う?」  分からなかった。  阿風がいいやつであることは間違いない。仲間思いで、誰よりも強く、諍いや面倒事には真っ先に立ち向かう。上の立場になろうが、どんな立場の相手にも真面目に向き合う姿勢は変わらない。  いいやつは、大切な相手の望みを受け入れるのか。  それとも、相手を守るために望みを拒絶して、お前のためだと言い聞かせて安全な場所へ遠ざけるのか。  どちらもある面ではいいが、ある面では悪いとも言える。見方次第だ。それでも、悪い面が一つもない選択は単なる理想で、現実には滅多にお目にかかれない。幻とも言える。誰にとってもいい選択がないからこそ、人は対立し、迷い、傷つく。  人が選択するとき、何かを最善だと信じ、何かを諦めざるを得ない。  選択は、すなわち、何かを信じて選ぶ代わりに、選ばなかったものを諦め、捨てることだ。 「俺は虎だ。いいやつじゃない。だから、どうするべきか分からないが、俺なら、その子のしたいようにさせる。俺たち大人が、勝手にその子の選択を決めていいわけがない。他人の道を選んで、こうしろと強制すれば、必ず禍根が残る」  つまり、いいも悪いも関係なく、俺が言いたいことは決まっている。 「俺は、阿風と信一の間に禍根が残ってほしくない」  阿風が頷いた。気がつけばその口元は笑っていた。何か決めたようだ。吸っていた煙草を摘んで俺に差し出してくる。 「ありがとう、助かった。阿虎も吸うか?」 「おや、もう吸わないのか。俺の気遣いは余計だったか」 「違う。もう十分だ」  煙草を受け取り、軽く吸った。 「信一はまだ子どもだ。大人になるまでに何度も話し合ってみる。お互いになるべく納得できる選択を探す」 「それがいい」  薄く煙を吐く。阿風は目を細めて、俺を見つめる。 「阿虎。お前だっていいやつだ。十二を引き取ったことを悔やまなくていい。悔やむくらいなら、育ててくれないかと、お前に十二を会わせた俺のせいにしろ」  そう言うところが、いいやつだ。俺はお前と違って、いいやつなんかじゃない。つい否定しかけたが、煙を燻らして数秒黙った。  いいやつがせっかく言ってくれたことを否定したくなかった。それほどに阿風の言葉は魅力的で、俺の心は友人の言葉を素直に受け取れるほど凪いでいた。 「分かった。お前が言ってくれたことに背かないために、虎なりにいいやつになってやろうじゃないか」 「もとからいいやつが、さらにいいやつになるつもりか?」  からかってくる阿風に、さて俺のどこがいいやつだったかと大げさに肩を竦めて応えた。お互いに吹き出して笑い合っていると、ばたんと扉が開く大きな音がした。  店の出入り口の方へ振り向く。息を切らし、肩を大きく上下させている信一が走り寄ってくる。額や顎からは汗がいくつも伝い落ちている。 「虎哥、来て! 早く! 十二が……」  俺の手を信一が取って、必死に引っ張ってくる。すぐさま立ち上がる。信一がこれほど戸惑い、焦っている姿は見たことがない。何かが十二にあったのは確かだ。いたずらでこんなことをする子ではない。阿風を一瞥すると、彼も既に立っていた。 「連れて行ってくれ」  信一は手の甲で目元の汗をぐいと拭い、俺の手を握り、走り出した。店を出て階段を上下に行き来し、いくつかの建物を通り過ぎる。信一と十二はずいぶん遠くに遊びに行ったようで、信一の脚はまだとまらない。この先で何があったのか気持ちばかりが急く。  背中が粟立ち、額に汗が滲む。  無事であってくれ。怪我だけはしていないでくれ。  最悪の事態が頭を過ぎる。  どうか生きていてくれ。  嫌な想像ばかりが先立つ。  しばらく走ったところで信一が少しずつ走る速さを緩める。あたりに人影はなく、物音をほとんど聞こえない。埃っぽく、土と黴(かび)の匂いがする。そして、煙草の匂いに混じって、薬物独特の刺激がわずかに漂っている。 「龍哥、この近くで子どもに薬物を売ってる売人がいた。十二は売人をとめるために残って、僕に虎哥たちを呼びに行かせたんだ」  潜めた声で信一は話す。この様子だと、売人は横暴で手段を選ばない、危険な相手のようだ。少なくとも、子どもにとっては脅威に映っている。 「信一、売人は何人いたか分かるか」 「少なくても、たぶん三人はいる。三人分、声がしたから」 「逃げられると面倒だな。手下を呼んで、このあたりの通路を塞いでおく」  阿風は駆け出し、手下たちを呼びに行った。信一は引き攣った声で話し始める。 「十二は、信一は売人に気づかれないように離れてろって言って、売人たちを追い払いに行ったんだ……虎哥、十二はまだここにいる、助けて、お願いします。十二を置いていって、ごめんなさい」 「置いていってはいない。信一は俺たちを呼びにきてくれた。正しい判断だ。この先に売人がいたのか?」  信一は頷き、薄暗い通路を指さした。 「この先を真っ直ぐ行ったところにある階段の下、何もなくて物置きみたいになっていて、誰もいないところ」  緊張や恐怖が蘇ってきたのか、信一の目から涙が溢れ出す。俺は信一の肩に手を置いた。細かく震えている。 「売人に見つかったら危ない。近くの物陰か、身を隠せるところにいろ。龍哥か、手下が来るまで、出てくるな。何があっても、俺のところには絶対に来るな」  頬を伝っていた涙を指の腹で拭い、背中を押した。頷いた信一は走って近くの柱の陰に隠れた。  かけていたサングラスを外して懐にしまう。信一が指さした暗闇に歩を進める。  緊張が神経に沿って張っていく。  呼吸は自然と浅くなる。  足はできるだけ軽く、静かに前に出す。  軽く身構えていた。  耳を澄ませ、片目はあちこちを動き回り、暗闇を探る。  通路の行き止まりに階段があった。頼りなく点滅する電灯、錆びついた手すり、踏み潰された煙草の吸殻。  階段を下りていく。  煙草の匂いがする。火をつけたばかりの、擦れていない真新しい匂いだ。  子どもが啜り泣くような、苦しげな声がした。  呼吸が詰まる。  気がつけば足音を殺すことさえ忘れ、駆けていた。






公開:2026年10月4日

更新:2026年10月4日

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