サンプル
虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ
『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。)
「誘い差し出す」(書下ろし)
一
煙草の匂いは好きだ。けれども、いつもじゃないと溜め息をつく。
隣には虎哥がいる。部屋は俺と虎哥以外、誰もいない。つまり、俺と虎哥の二人きり。ここでつく溜め息なんて、似合わない邪魔なものだ。それこそ、好きな曲が流れているラジオに急に混じったノイズ。ダンスが盛り上がったときに限って起こる、機械の不調みたいなもの。ただ、俺が大人しく、従順ないい子でいれば、溜め息は押さえておける。邪魔ものにしては、いいところがある。
目だけを動かして隣を窺い見る。虎哥はさらさらと帳簿に数字を書き、書類を手早く確認している。俺の方は一切見ない。つまらない。この部屋で仕事を始めたときから、ずっとこの調子だ。俺は虎哥の仕事の手伝いをしないといけないと分かっていても、二人きりという状況に何か起こらないかと期待して浮かれているというのに。
ときどき虎哥が書類を渡してくるから、俺は書類の内容に誤りがないか確かめ、封筒にまとめて入れていったり、別の帳簿に挟んでおいたり、片付けていく。
それが俺の仕事だ。あと、ペンがとまって新しい煙草が咥えられたときは、火をつけるくらい。確かに話す必要はない。でも、仕事を始めて今まで虎哥は話しかけてくれるどころか、俺を碌に見もしない。声も、視線も俺にはほとんど向けてもらえなくて、仕事とはいえ不満が溜まっている。
少し顔を上げて、虎哥の顔を見る。細められた左眼が帳簿を睨みつけている。煙草の煙が静かに吐き出される。俺はもう一度溜め息をつく。もしや、虎哥は俺より帳簿の方が好きなのか? 実際、つい最近付き合い始めた俺より、仕事の方が遥かに付き合いが長い。付き合いの長さだけで言えば、俺は分が悪い。漂う紫煙を吸うたびに、くだらない不満が胸に溜まっていく。
そう、くだらない不満で、子どもっぽい愛着、執着だ。虎哥は仕事より俺を大切にしている。そんなことは分かりきっていて、物分かりのいい振りをしたいのに、不満はさらに募っていく。
前に抱かれて一ヶ月が経ちそうだ。それから今日まで、次はいつしよう、いつなら時間があるといった話は一つもない。キスどころか、手をつなぐことだってない。いつも俺が誘うか、ねだって抱いてもらうばかりだから、たまには虎哥から誘ってほしいのに、その気配はまったくない。
そのせいで、俺は虎哥に無理をさせて付き合わせているのか、虎哥にとって俺は魅力的ではないのか、このまま黙っていたら付き合っていないことになってしまわないか、と悪い想像を膨らませて、いらいらしてしまう。
いつの間にか、とんとんと床をつま先で叩いていた。だめだと思ったけれど、もう大人しくしていられない。溜まっている。不満も欲望も。
短くなった煙草が灰皿に押しつけられた。煙草の箱を取った虎哥の手に、手を伸ばす。素早く、手の甲を覆うように掴んだ。
「どうした。禁煙させたいか」
「そうじゃない。吸う本数は減らしてほしいけど」
まだ分からないのか。唇を尖らせようとしたけれど、虎哥の左眼がやっと俺を向いて、つい口元が緩んだ。悪戯を隠しきれない子どもくらいへたに笑ってしまう。誤魔化しきれないと諦める。虎哥の顔を覗き込むようにして、さっと唇を重ねる。乾燥していて、煙草の匂いが強い。そして、柔らかい。押し退けられる前に唇を離す。
「仕事に飽きたか? 仕様がない子だ」
「まだ子ども扱い? 一応、付き合ってるつもりなんだけど」
「俺にとって、お前はずっと子どもだ」
「ふうん。だから、俺なんて抱かなくても平気なんだ」
握っている手に思わず力が籠もった。鍛えられた硬い手は動かない。代わりに、左眼がすっと細められた。そこで、わざと嫌なことを言ったのが後ろめたくなって目を伏せる。
「ごめん、虎哥が忙しいのは分かってる。こんなこと二度と言わない」
「なぜそう言った? 不満があるなら、言えばいい。俺たちは付き合っている」
「……前にしたのは結構前なのに、虎哥は俺を誘ってくれないし、キスすらしてくれない。俺と付き合うのは、本当は嫌だったのかって」
「誘ってほしかったか」
顔が熱い。信一や四仔が見たら、きっとからかうくらいに赤くなっている。
「うん。いつも俺が誘ってただろ。もし虎哥に無理に付き合ってもらっていたらって思って、何度も誘うのは気が引けた」
「俺からすれば、こんな年嵩がお前みたいな若者を誘うのは抵抗がある。それに親が子を求めるなんて、みっともないと思わないか」
「そんなことない。虎哥は父さんだけど、すごくかっこよくて、傍にいるだけで興奮する」
握っている虎哥の手に指を絡めて、手の甲や指に甘えるように指を擦りつける。くつくつと掠れた笑いが返ってくる。
「変わった子だ」
「変わってる? 俺が? 虎哥に惹かれない方が変だ」
「勝手に言え」
「じゃあ、もっと言うけど、虎哥は誘ってくれないの?」
「子どもに応えるのはまだしも、子どもを求める親になるのは抵抗がある。それに俺が誘って負担になりたくない。お前はいい子だ、断らないだろう」
「当たり前だ、断るやつがどこにいる? 虎哥の誘いなら、いつだって大歓迎だ」
虎哥は困ったように首を横にして、溜め息をついた。俺が握っている手は煙草を吸いたいのか逃げかけた。咄嗟に離れかけた手を握りしめる。わずかに虎哥の肩が揺れて、握っている手が強張った。
「虎哥、単純なことだ。俺は虎哥が好きなんだ。虎哥は俺が好き? 抱きたい? それとも、本当は付き合いたくない? 抱きたくない?」
「……好きだ。抱きたくないわけがない」
「よかった。なら、虎哥に誘ってほしい。俺ばかり誘うと、段々不安になるから」
「くだらない心配をさせたな。これからは、俺からも誘おう。早速だが、明後日の夜が空いている。人払いもしておく」
「久しぶりだ。楽しみだ」
俺は体ごと虎哥に近づき、口の端に口づける。そして、耳元に口を寄せる。
「虎哥の好きにしてほしい。何がしたい? 何でも付き合う」
「何でも、か。軽々しく言うことじゃないな」
虎哥はふっと笑って離れた。自分なりに色っぽい声を出したのに、効果はなかったみたいだ。つまらないなと、肩に頭を寄りかからせる。
「どうして? いつも虎哥は俺に気遣ってる。俺は、虎哥がやりたいことをしてほしいだけだ。何がしたい? 準備しておく」
「俺が年寄りだと甘く見てるな。本当にいいのか」
「嘘なんかつかない」
虎哥が俺の耳元に口を近づける。
「すぐ抱けるようにしておけ。前に抱いて、ここまで空くとは思っていなかった」
「分かった。よく準備しておく」
顔を上げて、虎哥に口づける。舌で唇を舐めると、虎哥の口がおもむろに開く。
舌を入れようと急いで舌を伸ばすと、嗜めるように軽く歯を立てられた。慌てて舌を引っ込める。
「まだ仕事中だ。分別をつけろ。明後日まで待て」
「そんな、明後日なんて待てない。少しくらい、してもいいだろ」
「明後日には好きなだけやっていい。それまで楽しみにしていろ」
「……分かった。でも、好きなだけ、って忘れないで」
「忘れる気はない。お前こそ、何でも付き合うと言ったのを、後悔するなよ」
「大丈夫。俺も明後日までに、準備万端にしておく。だから、好きに抱いて。どんな遊びにでも付き合う」
「まったく、どこでそんなことを覚えた。廟街のせいか、俺のせいか?」
「廟街と九龍城砦にいたら、いろいろ勉強できる。それに虎哥のためにも、自分で調べたんだ。四仔はそういうビデオを数えきれないくらい持ってるから」
大きな溜め息が返ってくる。でも、呆れきってはいない、わずかに笑いを含んでいる溜め息だ。
「残りの仕事は俺が片付けておく。お前はもう休め」
「ごめん、虎哥の仕事を邪魔するつもりじゃなかったんだけど」
「気にするな。付き合っているのに、構わなかった俺が悪い。仕事も残りはそう多くない、俺だけでいい」
「ありがとう」
その手から煙草の箱を取って、掴んでいた手を離す。煙草を一本取り出し、箱は上着のポケットにしまう。
「今日は、これで最後。これ以上は吸ったらだめだ」
煙草を虎哥の口元に差し出す。口元がにやりと笑って煙草を咥えた。ライターで火をつける。一息吸って吐かれた煙が漂う。名残惜しいと思ったけれど、椅子から立ち上がる。
「おやすみ、虎哥」
煙を吐く呼吸が聞こえる。
「ああ、おやすみ」
低く掠れた声に惹かれて、振り返る。煙越しに虎哥を見つめる。数瞬だけ、煙を挟んで虎哥と目が合った。頷いて、背を向ける。部屋を出て息を吐く。つま先から手の指先にまで、熱い。この調子で明後日まで我慢できるのか? と小さく笑って、自分の部屋に向かった。
公開:2026年10月4日
更新:2026年10月4日