サンプル
虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ
『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。)
「仔虎が好む場所」(書下ろし)
一
喫茶店に入ると、仕立てのいい服を着こなした店員に出迎えられる。待ち合わせをしていると言う前に、少し離れた席で阿秋が手を振った。俺は阿秋に顔を向けて、頷いた。店員は待ち合わせかと察し、離れていく。この店は内装や家具、店員の服装、態度まで隙なく整えられていて、いい店だ。廟街の馴染みの店と比べると、どうにも堅苦しい気がして、毎日通う気は起きないが。
阿秋がいるテーブルの近くに、彼がいつも連れている護衛がいる。彼らに「虎哥」と呼ばれて、「ああ」と応じた。阿秋の向かいに座る。
「久しぶりだな、虎哥」
「そうでもない。前に会ったのは、いや、そうか、もう一ヶ月は前か」
「やはり、子どもを持って親になったんだな」
どういうことだと尋ねる前に、阿秋は店員を呼んでいた。メニューをまだ見ていないと阿秋を一瞬睨み、適当に朝食を選ぶ。店員が去ったあと、俺は息を吐く。
「秋哥、何が言いたい。俺が親になった、なんて」
「人に会ったり、仕事をしたりするより、子どもと一緒にいたいんだろう。だから、俺と会うのも間が空くようになった」
「なんだ、もっと俺に会いに来てほしいか?」
冗談めかして言ったが、阿秋は微笑むだけだった。まるで、恥ずかしがるなと俺を宥めているようだ。
「いや、いつも仕事で忙しそうだったから、安心している。誰かに仕事を任せて、やりたいことをしているんだろう」
「ああ、信頼できる手下に仕事は任せている。重要な仕事まで任せきりにはできないが、俺がすべての仕事に口出ししなくとも物事が回ると気がついたからな」
「そうだ。世の中、だいたいそんなものだ。俺たちがいなくとも、若い連中がたいてい何とかしてくれる」
「だが、子どもの世話は引き取ると決めた俺がしないと、示しがつかない」
「なかなか仕事を減らそうとしないから心配していたが、分かっているな。仕事は誰かいればどうにかなるが、子どもには頼る相手がお前しかいない。いい父親だ。それで、引き取った子どもはどうだ」
煙草を取り出して火をつけた。頬杖をつき、阿秋から露骨に顔を背ける。数秒煙草を吸い、ふうと思いきり煙を吐く。
「いい子だ」
楽しそうに阿秋が笑い、もっと言うことはないのかと首を傾げてくる。正面から阿秋を見つめる。ほとんど睨み返していたが、一向に阿秋の笑みは崩れない。逃げも誤魔化しも通用しそうにない。俺は溜め息をついて頭を何度か横に振った。
「……かわいい子だ」
言い慣れない言葉だ。慣れないあまりに、煙草を吸っていても唇や舌が誤魔化しきれずに、むず痒い気がした。かわいい、このたった一言でここまで恥ずかしがるのかと、自分に嫌気が差しそうだ。
「虎哥にそこまで言わせるとは。たいした子だな。いつか顔を見せてくれ」
「ああ。薬物の離脱症状のせいでなかなか体調が安定しないが、よくなったらいつか会ってくれ」
「俺がその子と会えるときは、めでたいときだな。祝いの品を用意する。欲しいものがあったら何でも言ってくれ」
「ありがたい。そのときは、よろしく頼む」
ようやく恥ずかしさが薄れてきて、自然と口元が緩む。
そのとき、頼んでいた朝食が運ばれてきた。お互いに朝食を口にしながら、近況を話す。阿秋が最近始めた事業はうまくいっているようで、機嫌がよさそうだった。廟街でも、きれいな仕事に手をつけ始めた俺にとって興味深い話が聞けた。食後にはお茶が出てくる。それを飲んでいた阿秋は大きく息をついた。持っていた器を置いて、改めて俺を見つめる。
「虎哥。お前が引き取った子については、龍哥からも事情を聞いている。俺が今から話すことで気分を悪くするかもしれないが、聞いてほしい。嫌味で言っているわけではない」
俺もお茶を飲み、器を置いた。頷くと、阿秋は話し始める。
「もしもお前に何かあったときは、子どもを引き取れる相手を探す。仕事のつてで、黒社会とは縁遠い知り合いも多い。その方がお前も安心できるだろう? 黒社会は何かと危険が多い」
「そうだな。俺に何かあったときは、龍哥のもとに返すべきかもしれないが、なるべく薬物から離してやりたい。黒社会と縁遠い者を紹介してくれるのは助かる」
「優しくなったな、廟街の虎哥も」
「いつと比べている? 優しくなったことはない」
懐かしそうに笑う阿秋に、俺は口を曲げて煙草を咥えた。火をつけて浅く吸い、わざと煙をあたりに漂わせる。
「すまない。俺たちが若い頃から、お前は優しいな。昔と変わらない」
「からかうな。まったく……」
「事実を言っただけだがな。ともかく、それだけ子どものことを考えて、優しくしてやれるなら、俺の助けなどいらないだろうな。虎哥は強い」
「幸い、腕は鈍っていない。当分、誰かにやられて死ぬ気もない。だが、万が一、俺が死んだか、何かあったときはあとを頼む」
「縁起でもないことを言うな。そういうことを言うなら、まず煙草をやめるのはどうだ。煙草は健康に悪い」
阿秋は手を伸ばしてくる。煙草を取られないよう、さっと後ろに体を倒し、手から逃げる。わざと煙草を指に挟んで取り、長々と煙を吐いてやった。
「だめだ、これはやめられない」
「仕方がないやつだ。しかし、今日は久しぶりに話して安心した。その様子だと、大丈夫そうだ」
「ああ、大丈夫だ。離脱症状が出たときや、どう扱えばいいのか分からないときもあるが、あの子を引き取ってよかったと思っている」
「心配は杞憂だったな。ただ、無理だけはするなよ。お前が体調を崩したときは、数日くらい俺が世話を見られる」
「頼りになるな。じゃあ、さっそくなんだが一つ相談だ」
「何だ」
俺は煙草を吸い、肺に留める。こんな相談をするのは初めてだ。今まで一触即発の交渉の場を何度も乗り越え、どんな物騒な話し合いにも臆さなかった。だが、こんな相談は慣れていないと迷ってしまう。簡単な相談だからこそ、聞きにくくなるのかと不思議で面白かった。何の危険もない他愛のない話で、いったい何を恥ずかしがっているんだと、溜め息混じりに笑ってしまう。
「俺も、手下たちも、子どもの相手に慣れていない。それで、子どもはどれくらい甘やかしていいのか分からないが、厳しく接したくもない。今まで大変な境遇にいたのに、廟街でまた苦労させる必要はない」
「確かに、それは悩ましいな。それでも、虎哥には簡単だろう。本当に甘えたいときと、楽をしたくて我儘に振舞うときの違いくらい簡単に見抜けるはずだ」
「そうだといいが、子ども相手にできるか分からない」
「やれるはずだ。仲間や手下に裏切られ、命を狙われるのは、俺たちにとって日常茶飯事だろう。それに相手の顔色なんて窺わなくていい。毎日しっかり顔を見て、向き合えばいい。分からないなら聞けばいい」
「言われると簡単だったな。そうだな、それ以外に方法はない」
「あと、相手が甘えたがっていたら好きにさせてやる。甘えてくれるのは子どものときくらいだからな。厳しくするのは、もう少し大人になってからでいい」
「ありがとう。話せて気が楽になった」
吸っていた煙草を灰皿で消す。
「悪いが、俺はそろそろ帰る。あまり長く外出しないと言って来た。帰りが遅いと心配させてしまう」
「久しぶりに顔が見られて安心した。また時間があれば、酒でも飲もう」
頷き返す。金を置いて席を立ち、店の外に出る。店に面した通りに待たせていた車に乗り込んだ。ここに来るときは行き交う車が多くなかった通りが、混み合ってきている。まるで街が目を覚まして動き始めたようだ。十二は朝食を食べただろうか、俺がいない間に具合が悪くなっていなければいいが。
以前、移動しているときは廟街の土地や店に関わる取引や揉め事の仲裁など仕事ばかり考えていたが、今では時間があるとつい十二のことを考えてしまう。
家に戻って中に入ると、手下の誰かが俺に声をかけるよりも早く、軽い足音がぱたぱたと近づいてくる。家の奥から現れた足音の主は走った勢いを押さえきれず、飛びつくように抱きついてくる。
「虎哥、おかえりなさい!」
「ただいま。十二。朝食は食べたか」
「うん。兄貴たちが近くの食堂に連れていってくれた。おいしかった!」
「俺がいない間、具合は悪くならなかったか」
「大丈夫。今日は調子がいいみたい」
俺が帰ってきただけでもよほど嬉しいのか、満面の笑みを浮かべている。眩しいくらいの表情だ。頭を撫でると、目を細める。よく懐いた猫みたいだと思っていると、十二は何か思い出したように俺から体を離す。
「虎哥、テレビ観よう。面白い番組がやってるから一緒に観たい!」
俺の腕を掴み、早く早くと急かすように引っ張ってくる。廟街に来たばかりの頃は周りの大人の顔色ばかり窺っていたが、最近は子どもらしく甘えてくれる。
「十二、待ってくれ。今からか?」
慌ただしい子だ。だが、ここに来て、楽しいことがたくさんあるのだろう。嬉しい限りだ。笑って答えると、十二は驚いたのか小さく肩を揺らし、俯いた。そして、掴んでいた俺の腕を離してしまう。
「ごめんなさい。用事がある? 忙しい?」
「そうじゃない、少し驚いただけだ。用事はない。一緒に観よう」
十二の手を取ってテレビのある部屋に向かう。俺に並んで、十二は飛び跳ねるような軽い足取りでついてきた。部屋に入ると、手下たちがテレビを見ていた。
「大佬、おかえりですか。出かけてきて、どうでしたか」
「秋哥といい話ができた。お前たちは何を観ているんだ」
「武侠もののドラマです。面白いですよ。十二は虎哥と観る、ってずっと待っていたくらいです」
「だって、本当に面白いんだ。虎哥、こっち」
十二に腕を引かれるまま、空いているソファに座った。しかし、もうソファには空きがない。他の椅子も手下が座っている。椅子を持ってこないと、十二の座る場所がない。先に十二を座らせようと俺が立ち上がる前に、膝に十二が座ってくる。
「ここでいいのか、十二」
「ここがいい。虎哥は嫌だった?」
振り向いて小首を傾げてくる十二に、首を横に振る。
「俺を選ぶとはたいしたものだ。見る目がある」
「だって、虎哥が好きだから! テレビ見える? 俺、邪魔じゃない?」
「ああ、大丈夫だ」
膝に座る十二は、年齢の割に軽い。細い体の前に腕を回し、抱えながらドラマを観る。ドラマは既に中ほどにさしかかっているようで、激しい剣戟が繰り広げられている。十二は前のめりになって夢中でテレビを観ている。テレビもいいが、懐いてくれた十二を見る方が楽しいかもしれない。膝の上で笑い、息を飲んで驚く様子に、口元が緩む。ドラマは激しい戦いのあと、敵か味方か分からない謎めいた人物が出てきたところで終わった。何人かの手下たちがそろそろ仕事です、失礼しますと言って部屋から出ていく。テレビは宣伝が終わって別の番組が始まろうとしている。十二が振り向いた。
「虎哥、面白かった?」
「面白かった。十二はこういう話が好きか?」
「うん、九龍城砦で龍哥が面白いって教えてくれた。信一といろんなドラマや映画を観たんだけど、戦うところがかっこよくて好きなんだ」
さっき見たドラマの主人公が強くて優しいからかっこいい、悪役はとにかくあくどくて、ひどいやつだと楽しそうに話していたが、大きな欠伸をした。
「眠いのか。昼まで寝たらどうだ」
十二は何度も首を横に振った。
「眠くない。虎哥がいるから、今はできるだけ一緒にいたい」
そう言ってくれるが、また欠伸をする。十二の背中は段々と俺にもたれかかってきている。この様子からすると、ずいぶん眠たいようだ。誰にも頼れない環境に長くいたせいで痩せていたこの子の体調は改善されつつあるが、それでも、薬物の影響と離脱症状で十二は体力があまりない。少しでも無理をすると、熱が出たり、離脱症状がひどくなったりするため、体調を優先して眠たそうなときは寝させて、食べられるときに食べさせている。無理をせずに休めばいいと、頬や頭を撫でると心地よさそうにさらに体を俺に預けてくる。
「今日はもう出かける用事はない。俺はここにいる。気にせず眠ればいい。自分の部屋で寝るか?」
十二は欠伸をして、ううんと小さな声を上げる。
「ここがいい」
そう言うと、十二は猫が寝転ぶようにするりと体を倒す。俺の膝に頭をのせ、背中を丸くしてソファに横になった。肩から背中を撫でていると、寝息が聞こえてきた。近くにいる手下にテレビを消させて、毛布と新聞を持ってくるよう頼む。戻ってきた手下から毛布を受け取って、十二にかけてやる。
「虎哥、よければ俺が場所を代わりますか?」
小声で聞いてくる手下に首を横にする。
「このままでいい。十二を起こしてしまう。無理をして起きていたようだ、起こすのが忍びない。さすがに昼になったら起きてもらうが」
「実は、十二は朝に虎哥を見送ってから、ずっと眠そうにしていたんです」
「俺が出かけるのが早かったせいだな。見送らなくていいとは言ったんだが、昨日の夜にどうしてもしたいと頼まれて、朝早くに起こしたのが悪かった。こうなるなら、黙って出かけて十二は寝かせたままにした方がよかったか」
手下はたとえ冗談でもそんなことは言わないでくださいと、頭を振ってくすくすと笑う。
「虎哥が黙って出かけるなんて、とんでもない。十二が目を覚まして虎哥がいないと気がついたら、途端に泣き出します。泣きはしなくても、拗ねるか、むくれて、俺たちでは宥めるのが大変です」
口ではそう言いながらも、楽しそうに笑っている。手下たちも年の離れた子分か弟ができたようで、手が焼けるとはよく言うものの、満更でもないのだ。むしろ、手が焼けるからこそかわいがっている節さえある。
「虎哥を見送ってから、十二が眠そうにしていたので、朝食は俺たちが買ってくるからそれまで寝たらどうだとは言ったんですが、十二は置いていかれるのは嫌だと俺たちについてきて、帰ったらテレビを観始めて、結局寝なかったんです」
「もしかして、俺の帰りを待つから起きていると言っていなかったか」
「言っていました。虎哥が帰ってくるのを待つ、絶対に寝ないって、俺たちが言うことを聞きませんでした」
この子らしい。明らかに眠そうなのに寝ないと言い張り、手下たちを困らせる十二はすぐに想像できた。思わず小さく笑ってしまう。
「面倒を見るのが大変だろう。いつも頼ってすまない。助かっている」
「いえ、気にしないでください。年の離れた弟ができたみたいで、楽しいです」
「そう言ってくれるが、大変なのは変わらない」
「それでも、俺たちは兄弟と一緒に暮らせなかったり、家族がいなかったりで、十二といると楽しいです。もしも家族や兄弟がいたらって、思えるんです」
どこか寂しそうな笑みを浮かべて答えた彼は、今日は出かけずにここで仕事するので何かあったら呼んでくださいと続けて、部屋を出ていった。年の離れた弟分を起こさないために気遣ったようだ。気のいい手下たちがいてくれて助かる。十二の頬を撫でながら、お前の兄貴分が優しくてよかったと息を吐く。持ってきてもらった新聞に目を通すつもりが、十二を撫でながら、つい寝顔を眺め続けてしまう。そのうち、脚から感じる柔らかい体温につられたのか、欠伸が出てしまう。
仕方がない、朝が早かったせいだ。言い訳をし、目を閉じる。ときにはこうして寝るのもいいものだ。それに、この時間はきっと今しか楽しめないだろう。十二が大きくなれば、俺の膝で昼寝などしなくなる。子どもは大きくなれば、親から離れていくものだ。阿秋が言っていたように。
そうか、こうすればいいのか。目を閉じながら、ふと気がつく。
子どもはいずれ大人になって甘えなくなるのだから、今くらいは十二の好きなように甘えさせてやればいい。
この子も甘えるのがうまくなってきたが、まだ俺に気を遣いがちだ。この子の好きなようにさせてやる、それがいいのだ。阿秋から聞いた言葉を思い出す。
もう心配はいらない。ふっと肩の力が抜けていく。気がつかないうちに、緊張していたのかもしれない。
膝の上に感じる十二の体温と、自分の体が馴染んで、境界が曖昧になっていく。微睡んでいる。眠ってしまうのは惜しいが、これほど心地いい状況で眠れるのはまたとない機会だ。今は身を委ねよう。眠気に身を預け、十二と一緒に眠りついた。
公開:2026年10月4日
更新:2026年10月4日