サンプル
虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ
『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。)
「夜更けのご馳走」(書下ろし)
一
寒い。手足の心細い感覚に、目を開ける。
つま先から頭までぶるりと震える。雨に降られたみたいに、体が湿っている。また売人に殴られて外に追い出されたのか? 反抗的な態度だったとか、睨むような目つきをしたとか、泣いて苛つくとか、何が理由だったか。思い出せない。どうして、俺はここにいて、寒いんだ? 何かがおかしい。俺が横になっているのは湿った地べたでも、冷たい石畳でもない。柔らかいベッドだ。
あたりは真っ暗だ。目を凝らし、ここがどこだったのかを急いで思い出す。
滑らかな毛布とシーツの感覚、清潔な匂い、外からはかすかに人の声や車の音が聞こえてくる。ここは九龍城砦ではない。そうだ、廟街にいるんだった。一ヶ月前に、虎哥がここに連れてきてくれた。
ふうと息を吐く。汗で寝間着が肌にはりついている。九龍城砦にいた頃にも、こうやって夜に目を覚ましたことがあった。
たいてい汗をひどくかいていて、胸が不安で詰まっていた。ここが安全な場所だと分かっていても、心臓がどくどく鳴っていた。
隣で眠る信一を起こしたくなくて、あのときの俺は背中を丸めて浅い呼吸を何回も繰り返した。胸の不安が減るまでひたすら呼吸をしていると、そのうち疲れていつの間にか眠っていた。ここには信一も龍哥もいないけれど、虎哥がいる。安心できる場所だ。心配いらない。自分に言い聞かせて何度か呼吸を繰り返してみるけれど、慌ただしい心臓はうるさいままで、なかなか落ち着かない。さらに、冷えた手足は、毛布を頭から被っても、体を丸めて手足を撫でても温かくならなくて、段々と一人でいるのが怖くなってくる。とにかく寒くて、誰かと一緒にいたい。ベッドは柔らかくて心地いいのに、一人だとやけに広くて寂しい。
まだ虎哥は起きているだろうか。俺がここに来たばかりのとき、虎哥が何か困ったことがあったら頼れと言ってくれたのを思い出す。被っていた毛布から頭を出し、暗い部屋で目を開ける。耳を澄ましても、家の中で物音や話し声は聞こえてこない。でも、一人でいるのが嫌で虎哥の部屋に行くと、いつも俺をベッドに入れてくれて、一緒に寝てくれる。今日も大丈夫だ。自分に何度も言い聞かせ、毛布を肩にかけて起き上がる。忍び足で部屋から出て、音がなるべくしないように扉を閉めた。
何度も暗い廊下を挟んで、向かいにある虎哥の部屋の扉をそっと開ける。
扉がなかったら、廊下と部屋が暗闇でつながっていたと勘違いするくらい、部屋は真っ暗だ。いつもなら、ここで虎哥が「十二」と呼んでくれる。
でも、今日は少し待ってみても返事がない。虎哥が仕事で外に出かけた、実はまだ俺は眠っていて悪夢を見ている、ひとりでに想像は膨らんでいく。虎哥が俺を置いてどこかに行ってしまった、俺は邪魔だったんだ、そんな不安が込み上げてくる。暗さに慣れた目で虎哥がいないか部屋を隅々まで見回しながら、ベッドに近寄る。誰もいない。ベッドのシーツも毛布もきれいに整っている。
「虎哥……」
呼吸が浅くなる。脚の力が抜けてふらついた。急いで廊下に出る。明かりをつけるのも忘れて、階段を下りた。下の階も暗くて、誰の気配もしない。
喉が痛くなる。怖い、一人は寂しい、置いていかれたくない、嫌われたくない、どうしよう。朝になっても虎哥がいなかったら。不安でいっぱいになる頭で必死に考えて、まだ見ていないところへ行く。台所、庭、応接室、でも、どこも真っ暗だ。あとは虎哥が仕事をする部屋で、俺一人では入ったことがない。兄貴たちも用がないと入らない部屋で、俺にとっては虎哥がいいと言ったときだけ入れる、特別な場所だ。
勝手に入ったら、きっと虎哥は怒る。それでも、その部屋に足が向かう。
いつの間にか、涙がこぼれて、邪魔だった。鼻と喉の奥が痛くて、啜り泣いてしまいそうで嫌になる。こんなことで泣くなんて、子どもみたいで悔しかった。こんな姿を見せたら虎哥に嫌われてしまう。
そのくせ、虎哥の傍にいたい。どうしようもない心細さを抱えたまま、扉まであと数歩のところで、小さな物音がした。眩しくて目を細める。扉が開いて、部屋の明かりが眩しいんだと遅れて気がつく。光を遮った人影がわずかに見える。俺の背丈よりずっと大きい影だ。
「十二、どうした」
「虎哥!」
嗄れた声がする。目を細めたまま、ほとんど何も見えないのに、聞き慣れた声がした方に向かい、影に飛びつく。
肩にかけていた毛布が落ちた。飛びついた相手は俺を受けとめてくれる。煙草の匂いがする。龍哥とは違う匂いで、これが九龍城砦と廟街の違いなのかもしれない。違いがあっても、どちらもとても好きな匂いなのは同じだ。
「大丈夫か、具合が悪いのか」
「具合は悪くない。さっき起きて、寝れなくて、虎哥を探してた」
「俺が寝室にいなかったから、ここまで探しに来たのか」
「うん、いつも夜は向かいの部屋にいるから。出かけたのかと思った」
「ここで仕事をしていた。不安にさせてすまない」
「俺こそ、仕事の邪魔をしてごめんなさい」
そこまで何とかつかえずに言えたのに、急に鼻の奥が痛くなって涙が溢れた。大きな手が背中を優しく撫でてくれる。どうして虎哥は俺にこんなに優しいんだろう。俺は何もできない、役に立てないのに。これ以上仕事の邪魔をしないために、離れないといけないと分かっているのに、虎哥の上着をいつの間にか強く握りしめていて離れられなかった。
「十二、お前が邪魔だと思ったことはない。大丈夫だ。怖い夢でも見たか?」
「見てない、でも、ときどきすごく怖くなる。ここに誰もいなくなって、一人きりになって、ずっと待っていても帰ってきてくれなかったら、どうしようって」
「離脱症状で、具合が悪くなったせいでそう考えるのかもしれない。夕方頃に離脱症状が出て、俺はお前の部屋で一緒にいたんだが覚えていないか?」
「……覚えてない」
「かなり混乱していたから無理もない。ずっとお前を抱きかかえていたが、途中で少しずつ落ち着いてきて、眠ったんだ。一人の方がよく眠れるかと思って離れたが、裏目に出たな」
「そんなことない。ありがとう、虎哥。覚えてなくて、ごめんなさい」
「もう謝るな。礼を言われるようなことは何もしていない」
背中を撫でていた虎哥の手が、俺の額を撫でる。
「汗がひどいな。まずは着替えろ」
俺は頷いた。そこでやっと体を引いて虎哥から離れる。そのときには、もう涙は出てこなかった。虎哥は床に落ちた毛布を近くにあった椅子の背にかけて、俺の手を取る。手を引かれるままついていく。向かった先は浴室で、汗でぐっしょりと濡れた寝間着を脱いだ。虎哥が濡らしたタオルで全身を拭いてくれて、さっぱりとした。一緒にさっきまで抱えていた不安や心細さまでどこかにいってしまって、不思議だ。どうしてさっきはあんなに怖かったのかも分からない。新しい寝間着に着替えて、浴室を出る。
「俺はまだ仕事をするが、十二は寝れそうか」
「あんまり眠たくない。虎哥と一緒にいていい?」
「構わないが、俺といて楽しいか?」
「楽しい! それに虎哥と一緒にいると、安心する」
虎哥が着ている上着の袖をそっと掴む。虎哥はふっと笑って俺の手を取り、さっき仕事をしていた部屋に連れて行ってくれる。部屋に入ると虎哥は長椅子に座って机に向かい、たくさんの書類や本に目を通し始める。俺はその隣に座って、近くに置いてあるラジオを触ったり、虎哥が新しい煙草を取り出したときにライターで火をつけたりした。机の上に置いてある本を読んでみたけれど、雑誌や漫画と違って文字ばかりで、そのうえ内容も難しくて分からなかった。途中から本を読むのをやめて、虎哥にもたれかかって、仕事の様子を眺めていた。虎哥はいろいろとノートに書き込んでいきながら、封筒に入っていた書類を何枚も目を通してさらさらと署名していく。迷いのないペン捌きは、ずっと見ていても飽きない。うまく風に乗って飛んでいる凧を眺めていると、時間を忘れてしまうのと似ている。
「十二、退屈ならラジオを聞くか? 一人でいてもいいなら、無理にここにいなくていい。テレビでも見たらどうだ」
顔を上げて、虎哥を窺う。虎哥は俺を見ずに、机の書類に目を落としたままだ。部屋から出ろと言われているのかと不安になって、虎哥の腕にそろそろと腕を回す。
「退屈じゃない。虎哥の仕事を見てると、面白い。えっと、面白いっていうのは、遊ぶみたいに楽しいとかじゃなくて、ずっと見ていられる。落ち着くんだ」
「それならいいんだが、まだ仕事が終わりそうにない。これが終わったら、眠くなるまでテレビでも観るか」
「いいの? 観たい!」
返事をすると同時に、お腹が鳴った。静かな部屋で、明らかに場違いな音。いつの間に空いていたんだろうか、恥ずかしい。慌てて片手でお腹を押さえて、ちらりと虎哥を見る。お腹の音に気づいていないでほしい、虎哥はさっきと同じように仕事をしていてほしい。
そう思っていたのに、虎哥は俺を見下ろしてほほえんだ。
「その前に、何か食べるか」
「いい、大丈夫」
「夕食を食べる前に離脱症状が起きた。腹が減っているのは当然だ。それに、何か腹に入れれば眠くなるかもしれない」
もう一度大丈夫と言う前に、虎哥は立っていた。その腕を握りしめていた俺は、つられて立ち上がる。そのまま台所に行った虎哥はお湯を沸かし始める。
俺はその隣で、鳴っているお腹をどうにか静かにできないか試して、お腹に力を入れてみたり、撫でてみたりしたけれど、まったく大人しくなってくれない。虎哥は二つのカップを並べて何かの粉を入れている。
「あまりいいものは出せない。悪いな」
「虎哥、ごめんなさい」
「今日は謝ってばかりだな。いったいどんなことをした? 俺には分からない」
「仕事をしてたのに、邪魔してる。俺がいなかったら、こんなことさせてない」
「俺もそろそろ休憩しようと考えていた。気にするな。明日、体調がよければ近所の店で朝食を食べよう」
「うん。でも……、俺、迷惑ばかりかけてるのに、いいの?」
「何がだ? お前が頼ってきてくれて、俺は嬉しい。一人で寂しい思いをさせるよりずっといい」
そう言ってくれるけれど、俺は虎哥に何もできていない。このままだと嫌われて、虎哥が離れていってしまいそうで不安が募る。嫌われて見離されないよう、これ以上は迷惑をかけたくない。もっと邪魔になる前に虎哥から離れようとしたとき、大きな手が肩に回される。温かい手だ。
「迷惑をかけていると後ろめたく感じるなら、いつか誰かを助けてやればいい。信一が困っているとき、助けられるようになっていたら、俺にとっては十分だ」
「分かった。いつか、周りの人に恩返しする。虎哥にも」
「俺にはいい。子どもの世話をするのは、親の役目だ。自分の子に当然のことをしただけで貸しを作って恩で返させるなんて、黒社会でもやらないあくどい手口だ」
「でも、虎哥は俺を助けてくれた。大人になったら、虎哥の役に立ちたい。虎哥は父さんだから、親孝行する」
「そんなことをさせたら、龍哥に叱られる。子どもに何をやらせるんだと」
何か面白かったのか、虎哥は喉を鳴らして笑った。どうして笑うんだろう。細められた目は嬉しそうにも、困っているようにも見えた。困らせるなら、これからあまり言わないでおこう。虎哥は火をとめて、やかんのお湯をカップに注いだ。
「これはお前の分だ。よく混ぜて飲め。熱いから気をつけろ」
手渡されたカップは茶色の液体でいっぱいで、甘い匂いがする。スプーンで混ぜながら、台所の近くにあった椅子に座る。少し飲んでみる。熱くて味が分からない。冷めるのを待ってまた飲んでみる。甘くて、柔らかい味が口いっぱいに広がった。
「阿華田だ」
「おいしいか?」
「おいしい! 龍哥もよく飲ませてくれた。これ、好きだ」
「実はお前が廟街に来る前、龍哥に教わった。子どもにはよく栄養を摂らせろ、十二は阿華田が好きだ、と」
「そうだったんだ。虎哥はこれ好き?」
「俺がお前くらいのとき、たまに飲んでいた。いつでも飲めるわけではなかったが、好きだった」
「阿華田を飲めば、虎哥みたいに大きくなって、強くなれる?」
「分からない。お前次第だ」
それでも、虎哥が昔同じものを飲んでいたのが無性に嬉しくて、これからもなるべく飲もうと心に決める。阿華田が熱いうちに飲みきると、体がじわじわ温かくなってくる。
「ごちそうさまでした」
カップを片付けていると、虎哥も飲み終えてカップを一緒に片付けてくれた。
「腹はどうだ? まだ何か食べるか」
「大丈夫。明日の朝食までにお腹が減らなかったら困る。虎哥と食べたい」
少し瞼が重い気がする。あくびが出る。忘れていた眠気がいる。どこからやってきたんだろう。
「眠たいようだな。部屋で寝れるな」
「うん」
「歯を磨いて寝なさい」
「分かった。おやすみなさい」
台所を出て洗面所に向かう。体は温かくて、心細さはもう見つかりそうにない。これなら一人で大丈夫と思いながら階段を上がっていると、後ろで明かりが消えた。驚いて振り向くと、虎哥が暗闇にいた。そして、上の階の明かりをつけてくれた。
「虎哥、仕事はいいの?」
「明日にやる。俺もそろそろ寝たい」
やっぱり仕事の邪魔をしたのかもしれない。でも、謝っても虎哥に余計に気を遣わせるだけだ。何も言わないまま、二人で洗面所に入って歯を磨いた。自分の部屋に戻ろうとすると、背中に大きな手が添えられる。
「一人で寝れそうか」
「たぶん、大丈夫だと思う」
「俺もそう思うが、離脱症状もあって心配だ。今日は一緒にいてもいいか?」
「いいの?」
返事はない。代わりに背中をそっと押して、部屋までついてきてくれた。俺は新しい毛布を出して、ベッドに広げる。ベッドに横になると、部屋の明かりを消した。俺の傍に虎哥は腰をかける。そして、肩から背中を撫でてくれる。思わず、虎哥の腰に額を押しつけた。離れたくなかった。鬱陶しいと思われるかもしれないけれど、今日は甘えたかった。
「虎哥は寝なくていいの? 眠くない?」
煙草の匂いがする上着の裾を摘んで、指先でいじくりながら尋ねる。
「お前が寝るまで見ているだけつもりだったが、ここで寝てもいいか」
「うん。九龍城砦にいたときは、いつも信一か龍哥と寝ていたから、誰かと寝ると安心する」
虎哥が机の上に何かを置いて、俺の隣で横になった。
向かい合った虎哥の右目には、いつもの白い目がない。
義眼が外されている。
この部屋で一番暗いのは、虎哥の右目かもしれない。
飲み込まれそうで、つい見つめてしまう。
暗くて、真っ黒なのに、とても温かい色だ。
「一人で寝るのは、できるときだけでいい」
頷く。段々と眠くなっていた。煙草と線香が混じった虎哥の匂いは心地いい。廟街でも一番安心する。手探りで近づき、虎哥の胸元で体を丸める。
「さっき作ってくれた阿華田、おいしかった。明日、作り方を教えて」
「そんな大層なことはしていない。食堂でも飲める。明日、食堂の人に教えてもらえばどうだ」
「虎哥と同じがいい」
「そうか。明日教える。だから、もう寝なさい」
「ありがとう、虎哥……」
眠る前に、好き、と言った気がした。自分でも何が好きなんだろう、と思った。
虎哥、兄貴たち、廟街、おいしいもの、楽しいこと、さっき虎哥が作ってくれた阿華田。きっと全部だ。
虎哥が頭の後ろから背中にかけて、ゆっくりと撫でてくれる。
俺と同じように、虎哥も好きだと思っていたら、こんなに嬉しいことはない。
いつもなら、そんな都合がいいことを信じるなと疑ってしまう。けれども、虎哥が俺を撫でる手つきはとても優しくて、温かい。
この手つきは、きっと嫌いな相手にできないし、しないはず。そう信じられた。
公開:2026年10月4日
更新:2026年10月4日