サンプル
虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ
『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。)
「すこしむかし、ある日の話」(書下ろし)
一
手下に買ってきてもらった昼食を食べ終える。信一は十二と並んでソファに座り、二人で勉強を始めた。
子どもに薬物を売る連中を九龍城砦から追い出しきるまで、信一と十二に危害が及ばないようなるべく外に出さないようにしている。遊びたい盛りの二人を外に出せないのは忍びないが、だからといって勉強しないでいい理由にはならない。外に出られないのに勉強しろと言われて、信一と十二はとても不満げだった。だが、勉強をすれば、手下に頼んでお菓子や漫画雑誌を買ってきてもらうと約束してからは、信一も十二も案外熱心に勉強に取り組むようになった。
十二は同い年の信一と比べると知識が足りず、勉強が追いついていなかったが、信一に教えてもらうことでは少しずつ簡単な問題が解けるようになってきた。まだ同年代の子たちに追いついてはいないが、飲み込みは悪くない。このまま勉強をすれば、そのうち追いつけるだろう。
俺が十二を助けたときは弱りきっていて、本当に回復するのかと肝を冷やしたが、薬物の離脱症状を除けば具合がよくなっている。よくここまで元気になったと、二人が勉強する姿を眺める。
窓辺で煙草を吸いながら、今日の勉強を終えたら何のお菓子を手下に買いに行ってもらおうかと考える。たまには俺が商店に一緒に行って、好きに買わせるのもいいかもしれない。ずっと店の中にいてはさすがに息が詰まる。そんなことを考えていると、信一が鉛筆を置いて顔を上げた。
「龍哥、今日の分ができた」
「どれどれ。見せてくれ」
信一と十二はそれぞれ自分の問題集を開く。今日やると決めていたページの問題の答え合わせをする。
「よく解けている。がんばったな。今日買ってきてもらうのは、何がいい?」
二人はどんなお菓子にしよう、交換していろんな種類を食べるのはどうかと相談している。
「龍哥、決まった」
信一が言った。俺は手近にあった紙に、二人が欲しいお菓子を書き留めていく。
「あと、この前読んだ漫画の続きを読みたい。十二も面白いって言ってたから」
「どの漫画だ?」
十二がぱっと立ち上がって、店の棚から漫画雑誌を取り出してきた。両手で漫画を持って俺に表紙を見せてくる。
「これ、すごく面白かったから、早く続きが読みたい!」
弾んだ声に、俺は腕を組んで唸ってしまう。
「それはつい数日前に出たばかりだ。次に新刊が出るのはまだだ。悪いが、もう少し待ってほしい。新しいのが出たら買ってくる」
すると、たちまち信一と十二は顔を曇らせてしまう。それでも、すぐに大丈夫、気にしてないと笑ってみせる。すまないなと俺は目を細め、店に置いていない漫画雑誌があれば代わりになるかもしれないと紙に書き加えておいた。その紙を店の外で見張りをしている手下に渡し、買いに行かせる。十二はソファで信一と一緒にさっき取り出した雑誌を読んでいる。
「他に面白そうな漫画があったら買ってきてもらうが、店にかなりあるからな。読んだことのない面白い漫画は見つからないかもしれない」
「ごめんなさい、龍哥。続きが出てないって知らなくて」
信一が恥ずかしそうに言う。この子は十二と同い年だが、自分の方が九龍城砦に詳しいからと十二の兄貴ぶるときがある。十二も信一は何でも知っていて、頼りになると素直に慕うおかげで、信一はよく得意がっているのだが、今日は失敗した、恥ずかしいとでも感じているのだろう。
「店にあるものはお客さんが面白いからと持ってきて、譲ってくれるのに甘えていたからな。新しいのを俺があまり買わないから、どれが新刊か知らなくて当然だ。漫画や雑誌ではないが、本はどうだ。本ならたくさんある」
すると、信一と十二は顔を見合わせて、慌てたように首を横に振った。テレビや漫画と比べて文字ばかりの本のどこが面白いんだと言いたげな顔つきに、俺はくすくすと笑ってしまう。
「どうしてだ? 本も悪くないんだがな」
「テレビと漫画の方が面白い。十二もそうだよね」
「うん。本は文字がいっぱいで、疲れる」
「そうか? 武侠ものはかっこいい人がたくさん出てきて、大人でも夜通し読んでしまうくらい面白いが」
きっと二人とも、まだ興味を持たないだろう。
そう思っていたが、意外にも十二が顔を上げて俺をじっと見つめてくる。
「かっこいいって、龍哥と虎哥みたいな人?」
「少し違うかもしれない。テレビでやっている、昔が舞台のドラマみたいな話だ」
「そうなんだ。なら、テレビでドラマを見たい」
「テレビと比べられると、本は分が悪いな。ところで、十二には、俺と虎哥がかっこよく見えるのか?」
「うん! 二人ともかっこいい。龍哥は俺を助けてくれた。優しいし、いろんなことを教えてくれる。虎哥も優しい。あと、目の、ぎがんがかっこいい」
突然大きな声を出した十二に、隣にいた信一が目を丸くする。そして、からかうように肘で小突く。
「そんなに大きい声で言うくらい、好きなの?」
「かっこよくて好きだ。信一だって、龍哥と虎哥はかっこいいって思うだろ?」
「うん、そうだけど、十二は虎哥にまだそんなに会っていないから驚いた」
「でも、少し話した。そのとき、かっこいいって思ったんだ。虎哥はこの前、一緒に商店に行ったとき、ぎがんについて教えてくれたんだ。服装も、声も、すごくかっこよくて、目が離せなかった。今まで虎哥みたいな人、会ったことない」
捲し立てる十二に、信一は困ったように両手を上げて、聞いてるから待って、落ち着いてと繰り返す。俺は十二の隣に座って、頭を撫でた。
「よかったら、虎哥が若いときの話を聞きたいか?」
「聞きたい。いつの話?」
「かなり昔だ。もう何年前になるか……雷震東の話は知っているな」
「信一から聞いた。昔、龍哥が戦った相手だ」
「そうだ。そのとき、虎哥も俺と一緒に戦ってくれたんだ。そのあとの話だ」
十二は膝に手をつき、俺に体を向ける。早く聞きたくて仕方がなさそうだ。
「雷震東との戦いで、虎哥はひどい怪我を負った。あの義眼と声は、このときの怪我のせいだ。だが、虎哥は怪我を手当てして、すぐに廟街に戻った。他の組織との縄張り争いにも負けずに、とうとう廟街をまとめるボスにまでなったんだ」
「昔から虎哥は強かったんだ!」
「ああ。俺が初めて会った頃から、負け知らずで有名だった」
「龍哥と虎哥、どっちが強い?」
無邪気な質問に、わざと大袈裟に首を傾げる。だが、信一も気になったのか漫画から顔を上げて、俺を見てくる。
「比べたことがないから、分からないな。十二だって、どっちが強いか確かめるためだけに、信一と喧嘩したくないだろ?」
「うん。じゃあ、二人はずっと仲が良いの? 一度も喧嘩したことない?」
「出会ったばかりの頃、虎哥は俺を助けてくれた。それ以来、義兄弟だ。喧嘩は何度かしたが、手が出る喧嘩はない。もし本気でやり合ったら、お互いに大変だ」
「どんなことで喧嘩したの?」
「俺が店を構えてから間もない頃、練習がてら髪を切らせてもらったんだが、失敗したんだ。あのときは、どんなに謝って、宥めすかしても、ずいぶん口を聞いてくれなかった。高い料理と酒を奢って、何とか許してもらえた」
「そのときは、どんな髪型だった?」
「今より少し長くて、あまりセットはしていなかった。自然な感じで、あの頃の髪型もよく似合っていた」
「虎哥は昔からかっこよかった?」
「ああ、初めて会ったときからかっこよかった。強くて、義理堅くて、情に厚い。だから、虎哥はいつも誰かに飲みに行こう、遊びに行こうと声をかけられていて、遊びに誘うのにも一苦労だった。昔の写真があったはずだ、見たいか?」
「見たい! あるの?」
「確かあったはずだ。探してくる」
立ち上がって、店の奥にある自室に向かう。本や書類が雑多にまとめられている棚で、特にほとんど手をつけていないところを探してみる。昔の写真は阿風も、阿秋もあまり見たがらない。俺も見たい気分にはならない。写真に写る若造の俺たちは、そのほんの先に起こる死や苦しみを想像していない顔をしている。きっと、それが苛ついてしまうのだろう。誰かが悪いわけではない。だが、過去は変えられない、仕方がないものだからこそ、振り向くのが恐ろしいときがある。結局、俺は未だに自分の弱さや無邪気さに向き合うのが怖いのだ。
だが、今日は他人に見せるのが目的だ。そのためなら、過去を思い出しても、大丈夫そうだ。そんな珍しい気分になっていた。
「あった。ずいぶん奥に仕舞い込んでいたな」
押し込まれるように、いろいろなものに埋もれていたアルバムを引っ張り出す。何冊か開いて確かめ、若い頃の阿虎が写っている写真があるものを選び、戻った。
「なあ、信一は龍哥と虎哥の昔の写真を見たことある?」
「龍哥のはあるけど、虎哥のはない。だから、僕も見てみたい」
「きっとかっこいい。早く見たい」
「うん、絶対にかっこいい。龍哥の昔の写真もかっこよかったから」
二人の話し声に、つい足音を立てないように近づいてしまう。
「嬉しいことを言っているな。俺の写真には、あまり期待しないでほしいが」
忍び足で店に顔を出して話しかけると、二人ともわっと声を上げて、驚いたと力なく笑う。いつの間にかテーブルにはお菓子がいくつかあり、二人で食べていた。俺がアルバムを探している間に、お菓子を買いに行った手下が戻ってきていたらしい。
お菓子をテーブルの脇に寄せる。アルバムをテーブルに開き、指で阿虎を示す。俺と阿虎が肩を組んで写っている。確か、阿秋が撮ってくれたものだ。二人ともにやりと格好をつけて笑っていて、若造特有の小憎たらしい顔をしている。
昔、阿虎は男女問わずいろいろな相手に声をかけられていた。若い頃はなぜあいつばかりが、と疑問だったが、今なら理由が簡単に分かる。体格はすらりとして飄々とした印象が漂っている。その印象をさらに際立たせる上着を羽織り、整えられた長めの髪は鋭い笑みによく似合っている。目元を一見冷淡そうにさせているが、人を惹きつける優しい表情が隠しきれていない。つまり、阿虎は昔から洒落ていて、かっこいいのだ。加えて隠しきれない愛嬌もあるものだから、誰もが惹かれて当然だ。
「これは虎哥と会って、間もない頃の写真だ」
信一と十二はアルバムをじっと見つめる。特に十二は目を大きく開いて、呼吸も忘れて見入っている。ぱちぱちと大きく瞬かせ、十二は顔を上げる。
「二人ともかっこいい」
「そう言ってもらえるとは思ってなかったな。ありがとう、嬉しい。虎哥にも伝えておこう。十二が褒めくれたと」
すると、十二は顔を赤くして首を横に振った。
「言わないで、恥ずかしいから。絶対にだめ」
「分かった、言わない。虎哥も、俺が勝手に写真を二人に見せたと知ったら機嫌を悪くするかもしれない。俺たち三人とも、写真を見たことは黙っておこう」
神妙な顔つきで、信一と十二が頷く。
「こんなにかっこいいのに、虎哥は写真を見られたくないの?」
俺は十二の質問に困ったなと顎に手をやり、息を軽く吐く。煙草を取り出して、火をつけた。阿虎の気持ちを勝手に想像して話すのは気が引けた。特に、友人相手に好んでやりたくはない。他人が好きに語っていいものではないだろう。だが、目を輝かせて俺の話を待つ十二を放っておくわけにもいかない。
「うーん、たぶん、虎哥は恥ずかしいんだろう。俺も恥ずかしくて、昔の写真を見られたくないと思うときがある」
「そうなの? 大人になると恥ずかしい?」
「今の十二が写真を撮られて、何年かして写真を見られたときに、かわいいと言われたら、どう思う」
例えに納得したのか、十二は分かったと首を縦に振った。
「俺はもう子どもじゃないから、恥ずかしい。かわいくなんかない」
そうは言うが、俺からすればまだまだ子どもなのだが、本人にとっては思いたくないのだ。大人ぶるのがむしろかわいらしく、油断すると笑ってしまいそうだ。
「そういうことだ。時間が経つと、いろんなものが変わるからな。昔の写真を見られるのは、恥ずかしいときもある」
アルバムを捲っていくと、記憶していたよりも、阿虎と阿秋が写っている写真が多い。自分でも気がつかないうちに、過去の記憶に蓋をしていたようだ。十二は阿虎を見つけるたび嬉しそうに見つめて、「ここに写ってる」と元気な声を上げた。信一も負けじと俺が写っていないかを探し、夢中でアルバムを見ている。その様子を傍で眺めていると、この写真はいつ撮ったか、何が当時あったのかと二人に尋ねられる。
昔を思い出して話すと、二人が興味深そうに聞いてくれるのが楽しかった。一時は思い出したくもないと考えていた過去だったが、この子たちのおかげで辛いことばかりではなかったと気がついた。わざわざ見ないようにしていたアルバムや、深く思い出そうとしなかった記憶が今さらになって惜しくなる。まるで塞がらない傷のように触れないままにするのではなく、そろそろ阿虎と阿秋に過去を思い出として話してみるいい機会なのかもしれない。
いつか時間があれば、あの二人にも昔の写真があるか聞いてみよう。俺たちの写真や昔話に夢中になっている信一と十二を眺め、俺たちの昔話は悪くないようだから、と胸の内で呟いた。
公開:2026年10月4日
更新:2026年10月4日